偶戯を巡る

長井望美と藤原佳奈が、これまで紡がれてきた人形芸能を辿り、見つめ、場をひらく

オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目後編〉

〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。

以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

 

オシラサマを祀つていた家の主婦たちの個性…ひととなりや家庭の雰囲気を彷彿とさせられる。宮古市 北上山地民俗資料館に展示された川井地域のオシラサマ。





 

オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目後編〉

2024年6月28日(金)取材Day6. 恐山(青森県むつ市)→宮古市立図書館(岩手県宮古市)→川井村北上山地民俗資料館(岩手県宮古市)→宮古市 記:長井望美

 

Pm15:30 宮古市立図書館(岩手県宮古市

3日目に訪問した岩手県立博物館で「岩手県内でオシラサマにゆかりのある土地、オシラサマと言えば訪問すべき場所はありますか?」とお聞きしたところ、

オシラサマ自体が家の中で行われる信仰であったため、県内でオシラサマについて一般に公開されている場所はほとんどありませんが…。そういえば、宮古沿岸の黒森神楽の神楽衆が訪問先でオシラサマをアソバセていたという記録をみたことがあります…」とのお答えが。

 

宮古市立図書館。この2階に、宮古市史編さん室が。

黒森神楽について宮古市教育委員会へ問い合わせたところ、宮古市史編さん室をご紹介いただき、市史編さん室のある宮古市立図書館の二階を訪問させていただきました。

 

『黒森神楽』冊子を見せていただいた。宮古市教育委員会編 

 

『黒森神楽』冊子より。上段の写真の中央、薄青い襷をかけて背を向けている神楽衆がゴンゲン様(お獅子)に向かい左手でオシラサマを持ち、右手でオセンダクの裾を抑えている。

 

《黒森神社・黒森神楽とは?》

-----以下、宮古市役所web siteより引用 岩手県宮古市 黒森神楽 (city.miyako.iwate.jp)

 

黒森神社と権現様
標高330メートル余りの黒森山は、宮古市街地の北側に位置し、かつては、その名が示すように一山が巨木に覆われ欝蒼として昼なお暗い山であったという。山頂に大きな杉があり、宮古湾を航海する漁業者などの目印(あて山)ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として広く信仰を集めてきた。

黒森山麓の発掘調査により、奈良時代(8世紀)のものとされる密教法具が出土し、黒森山が古代から地域信仰の拠点であったことが窺われる。黒森神社は近世(江戸時代)までは、「黒森大権現社」などと呼ばれ神仏習合の霊山であった1334(建武元)年の鉄鉢(県指定)をはじめ、1370(応安3)年からの棟札が現存し、歴代藩主によって手厚く守護されてきた。権現様(獅子頭)は、南北朝初期と推定される無銘のもの、1485(文明17)年のものをはじめ、20頭が「御隠居様」として保存されている。黒森神楽の起源や巡行の始まりは不明であるが、1678(延宝6)年には現在のような範囲を巡行していたことが、盛岡藩及び地元の古文書で確認できる。

 

神楽の巡行
黒森神楽は、正月になると黒森神社の神霊を移した「権現様」(獅子頭)を携えて、陸中沿岸の集落を廻り、家々の庭先で権現舞を舞って悪魔祓いや火伏せの祈祷を行う。夜は宿となった民家の座敷に神楽幕を張り夜神楽を演じて、五穀豊穣・大漁成就や天下泰平などの祈祷の舞によって人々を楽しませ祝福をもたらしている。この巡行は旧盛岡藩の沿岸部を、宮古市山口から久慈市まで北上する「北廻り」と釜石市まで南下する「南廻り」に隔年で廻村し、近世初期からその範囲は変わっていない。こうした広範囲で長期にわたる巡行を行う神楽は、全国的にも類例がなく、貴重な習俗が現在も継続されていることから、平成18年3月に国の重要無形民俗文化財に指定された。

 

 


宮古市史編さん室で伺ったお話》

 

ー黒森神楽衆がオシラサマをアソバセる、ということは実際にあったのでしょうか。また、今日でも行われていますか?

 「黒森神楽は沿岸部で巡行を行ってきたというのが活動の特徴としてあります。宿を提供してくれる家で神楽を舞い、また次の家へと巡行を続けていた。黒森神楽衆がオシラサマに関わったのは、巡行先の家がオシラサマを保持する家で、その家の人にオシラサマをアソバセることを依頼され、権現様と一緒にオシラサマをアソバセたという事例ではないか。巡行を家に呼ぶ、ということは多額の費用がかかることでもあり、今日ではなかなか大変なことになりました。黒森神楽衆がオシラサマをアソバセるような事例が起こったのは2011年の震災前のことだと思います。今日では聞いたことがありません。」

ー黒森神楽衆というのは男性ですよね?男性がオシラサマをアソバセル、という例は初めて聞いたのですが…。

「神楽衆は確かに普段は一般の男性ですが、お神楽に臨む間は性別を超越し神に近い存在とされるので問題がなかったのでしょう。」

ーなぜ、家の方は黒森神楽衆にオシラサマをアソバセることを頼んだのでしょうか?

オシラサマをアソバセられる巫女がその地域に来なくなったなどの事情があったのだと思います。オシラサマはアソバセた方が良いとされているので、訪ねてきた黒森神楽衆に頼んだのでしょう。黒森神楽衆がふだんからオシラサマをアソバセていたということはなく、特殊な事例であったと思います。」

宮古地域でのオシラサマ信仰はどういった実態だったのでしょうか?

「江戸時代に新里、川井など、山の方で養蚕が行われるようになりました。第一次第二次世界大戦時、絹の需要が増え大正時代は宮古でも養蚕が盛んにおこなわれました。その頃にオシラサマも宮古に入ってきたのかもしれません。オシラサマを祀るのはある程度財力がある家でしたが、村に一軒、二軒あってもおかしくはなかったと思います。」

ー黒森神楽を調べていた時に、お神楽と一緒に巫女舞湯立託宣の写真を見たのですが…

「陸中沿岸地方には神子【みこ】と呼ばれる民間信仰の巫女がおり、北部にいるイタコさんに照応するような存在です。」

 

国指定文化財等データベース (bunka.go.jp)… こちらによると、宮古ではミコさんがオシラサマをアソバセていたようです。そしてミコさん文化も継承の危機に瀕しているよう。

 

宮古でもオシラサマは農業、漁業、養蚕の神さまで、オシラサマアソバセの日にお祓いや託宣、日忌(ひいみ)おろしなどを行っていたようです。家と親族間での行事ではありましたが、ミコさんが来るので近所の方はあそこの家にはオシラサマがいる、というのは知っていたのではないでしょうか。わたしも1月16日にオシラサマを祀って出しているのを見せてもらったこともありましたが、それももう十年以上昔のことになりますね。」

宮古市内で他にオシラサマを見られたり、お話を聞ける場所はないですか?

宮古市北上山地民俗資料館に二対ほど展示してあったのではかったかな???」

と資料館の資料目録を出してきてくださいました。

 

 

『川井村北上山地民俗資料館 ガイドと資料目録』 市町村合併のち、現在では「宮古市北上山地民俗資料館」となっている。

 

 

それはぜひ訪問したいと申し上げたところ、今から移動したら閉館時間ぎりぎりの到着になるのでは?と危ぶみ、市史編さん室から資料館に電話で確認してくださいました。

 

オシラサマについて調べているという人たちが関東からいまこちらにきているのだけど…そっちに確かオシラサマが一対か二対あったでしょう…、折角だから今から見に行きたいと言っているけど、時間があれですが、見せてもらえますか…。大丈夫ですか、はい、ありがとう…、エ、オシラサマは2対じゃない?五対もあるの?!」

思ったよりたくさんのオシラサマを拝見できそう。嬉しい誤算です!

 

温かいご対応とご親切に感謝し、市史編さん室を失礼して、急ぎ資料館へ向かいます。

 

 

Pm16:40 宮古市 北上山地民俗資料館 

閉館20分前に到着💦



 

資料館看板。市町村合併後に名称を修正された痕跡が。



 

おかげさまで資料館にぎりぎり滑り込むことができました。

 

資料館全体をじっくり見る時間はなく、オシラサマ関連の展示にフォーカスして拝見。通過することしかできなかった他のコーナーも大変面白そうで時間不足が残念でした。

この東北取材の七日間で岩手・青森の民俗資料館や博物館をいくつも訪ねました。館ごとに学芸員さんたちが地域文化と歴史の保存・伝承を、敬意と情熱・創意工夫をこらして行われており、様々な個性が顕れていることに感銘を受けました。博物館、郷土資料館、面白いです。

 

そうだ、博物館、行こう!!

 

地元の、旅先の、博物館、郷土資料館に出かける習慣を広げていきたいなと思いました!!みなさまも、是非、行こう、博物館!!

 

 

《川井村地域のオシラサマ》

 

展示されていたオシラサマは6組。すべて貫頭型でした。

オシラサマの頭とオセンダク(着物)の組み合わせ、入れられている箱や籠、行李など、それぞれに個性があり、6組すべてから、各家庭の刀自(主婦)に大切にお世話をされていたのだろうな…と思わせられる痕跡が感じられたのが印象的でした。

 

うち5組のスケッチ、そして長井が感じた印象をご紹介します。

 

▲この重ね着のセンス、時代を経ていま、斬新。パリコレのメゾンにぜひオシラサマをテーマにした重ね着ファッションに取り組んでほしい…、ランウェイを歩くオシラサマ風モサモサマントのモデルさんたちの画が頭をよぎった一対。
色の取り合わせも美しく、若いころから村のファッションリーダー的な存在だったおしゃれな女性のお家のオシラサマだったり…と想像しました。

 

 

 

▲初めて目にした馬と馬の番のオシラサマの一対。オシラサマの組み合わせは、①馬と人間の娘、というペアの印象が強いですが他にも、②娘と男、③男と男、④性別のよくわからないペア…といろいろあります。馬と馬の対は珍しい例なのではないでしょうか。対になりオシラサマとして長く暮らすとしたら、馬同士の方が共通の話題も多く共に過ごす時間はなにかと円滑で穏やかかもしれません…。仲立ちをした(?)作り手の、馬のオシラサマへの思いやり??のようなものがあったのでは、と想像した一対。

 

 

▲オセンダクの淡い色と素材感の取り合わせが美しい一対。 お世話をした女性の穏やかな美的感覚が伝わってきます。行李にいれられたオシラサマは仲睦まじく、居心地がよさそうに見えました。

 

 

▲お揃いでフクフクの赤いオセンダクを召されたオシラサマ。この家庭の刀自はきっと、お料理がお上手で家族たちもオシラサマのようにフクフクと、美味しいものを食べてあったかく暮らしていたのではないかなぁ…、などと想像しました。満面の笑みの表情も珍しい!!

▲対でペアルックのオシラサマも多い中、男女それぞれのオセンダク(着物)の個性が光る一対。 いかめしいお父さんとおしゃべりなお母さん、それぞれ意志が強く主張もはっきりしているけれど、長年連れ添った夫婦はなんだか面相が似ている?丁々発止の夫婦の会話が聞こえてきそう。助け合い、厳しい自然の中での生活を闊達に乗り越えてきた家庭像…のようなものが見えてくるような気がしました。

 

後日談として、学芸員さんに川井地域のオシラサマについてお電話で幾つか質問をさせていただきました。

この地域では、民間信仰の巫女(イタコなど)はあまり登場せず、オシラサマアソバセは家庭の女性やこどもたちだけで行っていたそうです。

「わきあいあいと楽しく遊ばないと怒られる。」というルールがあったとか(!!!)

 

 

 

《気になる宮古の馬事情…》

 

さて、馬にまつわる文化事情はこの地域ではではどうだったのでしょうか。

 

宮古街道 ウマとウシ

宮古街道は城下盛岡と沿岸宮古を結ぶ街道で、現在の国道と重なる所もあれば、山越えや谷沿いの難所も多くありました。当時の物資輸送の手段は牛馬が主流で、街道沿いの集落には「まぐさ宿」や「馬車宿:があり、繁盛しました。村内では一里塚が一か所確認されています。川井村はかつて場産地としても有名でしたが、次第にウシの飼育が主流になりました。春から秋にかけてはぼ牧野に放牧し、冬は厩で飼育しました。人々はウマヤウシを、農耕や運搬の動力として活用しました。堆肥を畑作に利用し、子ウマや子ウシを「おせり」で売って収入を得ました。厩の敷き草や冬場の餌となる「ひくさ」はカヤやクゾなどの草です。二百十日を過ぎた頃に山で刈り、現地に「しま」を立てて乾燥させてから家に運びます。この「ひくさ下げ」は「結いとり」で行いますが、一人が四、五しまもの「ひくさ」の束を「背負い台」に結いつけて運び出す、大変な重労働でした。

      ーーー宮古市 北上山地民俗資料館展示キャプションより引用

 

 

展示品のなかに「馬が重要な存在であった」と痛感させられる馬関連の品物も。

馬を守るお札の版木があったり…

▼「猿引神馬版木(さるひきしんめはんぎ)」

早池峰山善行院で遣われていた守り札の版木で、早池峰山の駒曳き猿として馬産家に信仰された一枚摺りの守り札の版木。

 

信者に拝まれお神酒を挙げられていたという馬の内臓などの病気の治療法が描かれた巻物があったり…

▼「伯楽秘伝書(はくらくひでんしょ)」

 

そして、ともに生きる動物は馬から牛へ…。となってくるともちろん?!牛を描いた「絵馬」ならぬ「絵牛」!?もありました!

共に暮らし共働する動物の存在に、人々は多産や労働種としての健康など実利的な観点以外に、愛着や感謝からも祈ったのでしょうか。

 



Pm17:20 小国・善行院(川井村小国地区関根)

 

閉館時間17:00,資料館を退出。まだ日も高いのでもう少し動けそう。

資料館の展示で見かけた、“天正二年(1574年)銘の「オシラサマ」(※スケッチの1枚目)が伝えられていたとされる寺”に足を運んでみましたが、廃寺となっていました。

 

この中にかつてオシラサマと権現様が収められていたそうです。(※現在は資料館に収蔵)保護用の波型スレート?に囲まれて本来の建物としての姿はわかりませんでした。

 

早池峰山信仰のお寺だったとのこと。「早池峰山は農民にとっては水の恵みをもたらす作神とされ、また三陸沿岸の漁師にとっては最後まで視界に残る山当ての神の山とされました。…全山が修験道の道場であり、昭和初期までは女人禁制の霊山でした。」宮古市北上山地民俗資料館キャプションより



宮古市内ゲストハウス宿泊。

PM:18:00頃 本日も日が傾き始める頃に取材終了です。スーパーで晩飯の材料を調達し、ゲストハウスに向かいます。

 

ゲストハウスのオーナーさんに宮古市での今日の演劇・人形劇事情をお尋ねしました。

宮古など沿岸には上演活動を専門的に、あるいは恒常的に行っている団体は少ないとおもいますね…。(※)盛岡や内地の方に行くと劇団がいくつもありますし、人形劇をやっている人も、たしか、いたんじゃないかな?盛岡ではいろいろな舞台公演も行われています。ただ、宮古では地域おこしの取り組みとして一般市民の参加者を募って市民劇を上演する企画を数年前から続けており、多世代が参加しています。」

(※2011年の東日本大震災の影響もあるようです)

 

柳田國男翁が論じた「オシラサマは人形芸能の元祖なのではないか」という説を辿って旅をしてきた東北。オシラサマ以外にも、驚くほど様々な人形(ひとがた)が存在し、それらを媒介とした人々の信仰に出会いました。

「人形(ひとがた)を動かし、他者に示す行為」から、この行為がショウアップされて行き、「人形製作・遣いの技術が発達し、人形芝居へ発展し、専門性が生まれ、観客に評価基準が生まれ、やがて人形芸能が職能化する」…の間には、確かな距離があり、「人形(ひとがた)を介した信仰で人形を動かす」行為から「人形芸能」が派生してゆく…間にどういった条件が揃う必要があるのか、ということを改めて考えてみたい、と思いました。

 

ちなみに夕飯にはアブラガレイ(このお魚、初めて調理した!)の煮物をつくったのですが、ゲストハウスの他の宿泊者の方々…、東南アジアからみちのく潮風トレイルに参加しに来たという華僑のカップル、東京から運転免許合宿と農家のお手伝いに来たという十代の女性…とお話が盛り上がり、写真を撮りそびれました…

 

→さて、取材旅行はいよいよ最終日。7日目は岩手県宮古市→黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京 とめぐります!!