〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。毎週月曜日更新、最終投稿!!
オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・後編〉
2024年6月29日(土)取材 Day7.
黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京
記:長井望美
《えさし郷土文化館》
えさし郷土文化館に無事到着。ガラス貼りの箱型の建物に螺旋階段の収まったエントランスタワー(?)が出迎えてくれました。この中に展示が…?!ブラジルでガラス張りの教会の内部の湿度のやばさを体験して以来、ガラスの建物を見ると内部環境が心配になってしまうのですが、本館は別の建物(ガラス張りでない…)で裏の高台にあり、タワーから回廊で繋がっていました。そりゃそうか…(失礼しました!!)
お目当ては開催中の特別企画展「まじないと地域史」展。事前の問い合わせでオシラサマの展示があるということ。最後の取材に向かいます。
江刺地域の文化とオシラサマについて、学芸員さんにお話を聞くことができました。
《江刺地域の歴史と文化》
江刺地域(旧江刺市)は2006年の市町村合併で現在は奥州市の北東の地域になっています。かつては蝦夷(エミシ)が住まいし坂上田村麻呂の遠征にあい、平安時代中期以降は奥州藤原氏が権勢を誇った地域。(えさし郷土文化館は「歴史公園えさし藤原の郷」に隣接しています。)室町時代末期には伊達政宗が「よそから来た支配者」としてこの地を統治、独創的な政策を行ったそう。江戸時代は仙台藩領として伊達家が明治維新まで統治。農業がしやすい立地で、冷害飢饉が少なく、藩財政を支える穀倉地帯として栄えたそうです。
同じ現・岩手県下でも、県が置かれるまで四つの藩が置かれていたのですね。(近世では北半は南部氏の盛岡藩領、南半は伊達氏の仙台藩領。のちに盛岡藩から八戸藩、仙台藩から一関藩が独立。)同県内でも地域により行われてきた生活スタイルや文化の違いがあるということ。
地域の特色は…
・東北の他地域にみられる雑穀文化は少なく、江刺郡では農民も米を食べていた。
・家系が苦しく武家と兼業で内職を余儀なくされる侍もおり、様々な侍の内職逸話が残っている。農家と武家の婚姻も行われていた。
・百姓一揆は一度だけ行われたが、生活の困窮から税の減免を訴求するものではなく、役人の不正に対するものであった。寛政九年に一揆の首謀者三名は打ち首となるが、訴えを受け数千人の役人が罷免された。
他藩からの亡命希望者もあった、という資料も残っているとのこと。
伺ったお話から、土地・農民の豊かさから庶民が政治的・文化的にも自らが影響力を持ち得る存在である、という自認と誇りを持った地域性を感じられました。
《江刺地域のオシラサマ》
・呼称は「オシラサマ」「オヒラサマ」「ジュウガツボトケ」と多様。
・「ジュウガツボトケ」はオシラサマが地域信仰に根付いていた浄土宗の「詣りの仏」と習合した形態とみられる。普段はしまってある神仏(聖徳太子や阿弥陀様)の掛け軸を出して家の中に飾る祭日に、オシラサマも一緒に出してきてアソバセた。
・仙台藩領の民間祈祷師は「オガミサマ」と呼ばれていた。やはり視覚障碍を持った女性の職能であり、師匠のもとで祈祷・所作の修業を行い独立する。かつて大和宗にオガミサンの組合が存在した。現在では職能としてオガミサマは途絶えてしまったが、岩手県一関市(奥州市の南方向に隣接)の大乗寺に祀る後継者のいないオシラサマが200体ほどおさめられている。
・オシラサマの材質は桑製と竹製がある。竹製のものは岩手県南部地域から宮城県域にのみ見られ、オガミサマの祭具として継承される。
・「オシラサマアソバセ」の祭日は年に一度か二度、主に3月か6月に行われた。
様々な資料から、総数的にはオシラサマの祭日は小正月(1月16日)という地域が多いようですが、江刺地域は習合した仏教の祭日の影響を受けて月が異なるのでしょうか。
実際に江刺地域のオシラサマを拝見!
「まじないと地域史」展に展示されたオシラサマは二組でした。
・厨子に納められた包頭型(2体)
・箱に納められた貫頭型(2体)+包頭型(3体)
一組目はテルテル坊主のような包頭型(頭を覆いくるまれたもの)の上に、更に着物のように前合わせでオセンダクを多層重ね、紐(帯)で結わえる着付け。重ねられているのは赤い絹布でしょうか。着付けのふんだんな布使いにゆとりが感じられます。
オシラサマを納めている厨子もしっかりした技術で作られており、宗教者の家系・オガミサマ系譜の家のオシラサマであったとみられます。
二組目は、貫頭・包頭型混淆。娘と馬の貫頭型の頭が印象的です。
オシラサマのほとんどは製作者が不詳であり、仏像・彫刻などの特別な技術訓練を受けていない近隣の人が作ったのではないかとみられる素朴な造形も多数あります。ただし、青森の久渡寺で伺ったお話で、寺社と縁ある地域では関連の仏師が彫ったとみられるオシラサマも少数であるが存在するとのこと。「まじないと地域史」のこの一対は頭部造形に製作者の洗練された技術が感じられ、一体どういった経歴の作者が製作をしたのか気になりました。同館には江戸時代に京仏師が製作した中善観音も収蔵されていますが、仙台藩のルートで、京都からやってきた職人やその流れを引く技術者がオシラサマを製作することもあったのでしょうか??
手前の二体の包頭型のオシラサマは、本体はオセンダクに頭まで収まる小さなサイズ?布の中はどうなっているのでしょうか…。奥の背の高い一体は、番とはぐれたオシラサマでしょうか?どんな来歴があって五体の中に入ったのか…。
展示された両組とも恰幅の良い着付けで、比較的大柄。納める容れもの、着付け方法、布の選択に骨太の気風のようなものが感じられました。威風堂々、江刺のオシラサマ…。
《「まじないと地域史」展、ひとがたとまじないのデザイン》
民間信仰の神体であるオシラサマ。調べていくと、呪術、まじないという問題を避けて通れません。学芸員さんにお話を伺いながら企画展を拝見しました。
【身近な呪術】
「まじない」とは人々が様々な願望を叶えるため、超自然の存在に働きかけた一種の民間信仰です。…「おまじない」と聞くと、気休めや呪文の意味で使用される場面が多いですが、それは語感によるもので、科学・技術が発達した現代とは異なり、前近代までの人々は疫病や自然災害といった生活を襲う多くの困難を解決するために、神秘的な「まじない」つまり「呪術」の力に頼っていたのです。また、宗教における神霊と人との関係をみると、人は神霊に対しひたすら願い、すがり、崇め、恩恵を求めますが、呪術の場合は人と神霊が対等な場面もあって、ときには人が優位に立つことさえあります。つまり、「まじない」には心理的な側面が多いことから、かなりのものが現代にも存続しているとされ、今なお身近でアクティブな信仰とされるのです。
【まじないと思想】
日本で古代から行われてきた呪術には、中国などから導入された思想を端緒とするものが多くみられます。…陰陽思想と…五行思想の考えが融合し…日本独自の陰陽道が発展しました。…(中略)古代中国で発達した道教、インドで発達して中国を経て日本に伝えられた仏教の考え方の一つ密教…(中略)、これらに加え、古来より日本に存在する土着信仰や神道が習合(神仏習合)した結果、山岳信仰や修験道など、様々な呪術的好悪を行う日本独自の信仰や宗教観が発達。民間にも広く普及したことで、その観念はたとえ外来の信仰や習俗(クリスマスやハロウィンなど)であっても受容し、日常化させるという現代人の宗教観にも深く反映されているのです。
こうして外来の宗教や信仰と独自の思想が複雑に混淆したのが日本の呪術の特徴であり、ことさらに日常生活に溶け込み、定着したものは「まじない」として親しまれてきました。
(「まじないと地域史」展キャプションより抜粋、一部要約)
オシラサマの民間信仰としての東北地方での広がり、変容しながら続いてきた逞しさは、クリスマスやハロウィンを生活に受容する日本人の精神性、宗教観に連なるものであるのでしょうか。
刀剣や神像、呪符など様々なまじないに纏わる展示がありました。特に気になったものをご紹介します。紙幣や獅子頭など、いずれも不可思議な生命力を感じさせる人形(ひとがた)、あるいは生物(神霊?)のデザインが大変に魅力的でした。誰も見ていない隙に意志を持ち歩きだし、飛び上がり、踊り出し、自由にどこかへ去って行ってしまいそうな、まじないの造形物たち。現代の論理で可能な表現…「架空の生き物を象った造形物」…という言葉にとどめられない、存在の祭り、躍動するアニミズム。
▽藁人形群。岩手、青森の各地域で見た藁人形がここにも!造形の違いを見比べても面白いかもしれません。
▽紙幣
▽シシガシラ
《江刺地域の馬と牛》
こちらは入口のカウンターに飾られていた江刺地方の牛・馬の郷土玩具。牛は千両箱(金)を運んでいますね。馬ッコは八戸の八幡馬にも似ていますが、これまでに出会ってきた他地域の牛・馬と比較すると、作業工程の手数が多く、シュッとした造作に都会的なデザイン性を感じます。これが仙台藩領センス?!
江刺地方は蝦夷の時代から馬産が行われていましたが、仙台藩時代から馬産政策が講じられ、仙台藩の三大馬市のひとつに数えられる市がありました。近代以後は富国強兵や殖産興業などの国策によって広く一般農家でも馬が飼育されるようになり、日清戦争後は軍馬の需要が拡大し、大正時代には馬匹数も全国一位となり、名実ともに馬産王国の地位を築きました。第二次世界大戦の敗戦により、馬産や馬の育成は軍馬の需要がなくなった上、大規模な土地改良が進む中で陰りをみせ、昭和30年代以降は農業機械の普及によって農耕馬は急激に減少。現在、飼育されている馬は祭礼のためのものがほとんどであり、事実上の農耕馬は昭和40年代に終焉を迎えたと考えられます。
戦後は江刺地方は米の収益だけではなく、他産業との兼業によって農家所得の向上を目指し、和牛、乳牛、豚、養鶏などを普及していました。食肉需要の高まりに応じる形で品種改良をおこない、現在ではブランド牛の畜産で知られています。
(えさし郷土文化館web site常設展解説より抜粋、一部要約)
常設展示 – えさし郷土文化館 (esashi-iwate.gr.jp)
《東北取材、終了。》
土偶や、101体の中善観音など、気になるものが沢山あったのですが、同日夜中の帰京を目指すため常設展の観覧は涙を呑んで断念…。再訪しての全館巡りを祈念しつつ、えさし郷土文化館を失礼しました。
お忙しい中、取材のご対応・企画展のガイドしていただいた学芸員さんにこの場で再度御礼申し上げます。資料の件もお世話になりました。心より、ありがとうございました!!!
《旅の終わりに…》
藤原「わたし、最後に一度、東北の美味しいもの食べたいんですけど、お寿司屋さん行きませんか?!帰りのルート上で検索して、美味しいお店の目星つけてありますんで!!」
長井「お、おぉ…(本気だね)!!」
7日間の取材旅行中はお金と時間の節約策で、朝夜は自炊、昼はコンビニ食になりがち。オシラサマを辿る旅をしめくくる最後の晩餐のため、宮城県でいったん高速を降り、回転寿司塩釜港へ。
十数分ほど順番待ちに並んで無事に席へ。アフターパンデミック対応か、寿司のレーンは廻さず、お客が注文を紙に書いて渡した後、職人さんが寿司を握って出してくれる方式になっていました。新鮮な東北のお寿司、めちゃ旨!!でした。特にトビウオとアラ汁が美味しかったです。
偶戯チーム、高速に戻り、深夜2:00頃に帰京。最後まで肉食は避け、口は曲がらずに無事帰宅しました。
※肉食はオシラサマ信仰上のタブーとする地域がある
おつかれさまでした!!
6月の取材旅行の報告ノートは以上になります。
纏め作業も長丁場でしたが、長文をお読みいただきありがとうございます。
報告ノートを纏めながら、様々な気づきやあらたな疑問の発生を感じました。わからないことが多いからこそ人を惹きつけるオシラサマ。「手を出すと泥沼」という研究者の先達の言葉を首肯、痛感する時間でした。
纏めを終えて、東北にまた取材に伺いたいという思いと、得られた材料で自分は一体どんなものを創れるだろうか、とワクワクする気持ちがあります。
オシラサマ取材について、お気が付かれたことやご質問などありましたらお気軽にお寄せください。
guugiwomeguru@gmail.com
▽今回のリサーチを基に次なる取材や関連事業への展開を検討中です。「偶戯を巡る」企画の今後の展開にご期待ください!
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以後は不定期更新になりますが、今後も関連記事を投稿していきたいと思います。