偶戯を巡る 第二弾〈オシラサマを巡る東北取材の旅〉直後 採れたてホヤホヤ!報告の宴

第二弾〈オシラサマを巡る東北取材の旅〉直後
採れたてホヤホヤ! 報告の宴
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねるプロジェクトです。
「オシラサマ」とは、東北地方に古くから広く伝わる民間信仰の神で、通常二体で一対の人形(ひとがた)の神像を家庭で祀ります。儀式やしきたりは地域・家庭により様々ですが、巫女や主婦などの女性が祭日にひとがたの神体「オシラサマ」をあやつり動かす儀式「オシラサマアソバセ」が行われてきたことが特徴として挙げられます。「オシラサマ」は、1910年、柳田国男が『遠野物語』に紹介しその存在が全国に広まり、日本民俗学黎明期から調査・研究が行われてきました。しかし、いまだに発祥や伝播の経緯など分からないことが多く、謎めいた民間信仰として知られています。二体のオシラサマを両手に持って操り動かす「オシラサマアソバセ」の儀式は「人形劇の先祖の形」なのではないかと言われています。
2024年度、〈偶戯を巡る〉チームは6月の7日間、岩手・青森を巡り「オシラサマ」を取材し、報告事業を実施してきました。
▼オシラサマを辿る東北取材旅ノート(7日間)
2025年度、〈偶戯を巡る〉は東北地方で更なる取材を重ね、多様な「オシラサマ」の姿や、「オシラサマ」を取り巻く人々のお話を採取。地域の人々と「オシラサマ」というひとがたの神様との関係性や、その信仰形態と人形劇との関連性を掘り下げてゆきます。これらのリサーチの成果として長井・藤原は新たな作品創作を行い、2026年春に改めて発表の場を設けることを計画しています。
2025度の第一歩は、2025年3月6日~8日、岩手県を再訪し、宮古・陸前高田地域を取材。取材後のその足で翌9日、東京都世田谷区の100の本屋さんで、興奮冷めやらぬであろう長井と藤原が、採れたてホヤホヤ報告の宴と題し、新たなオシラサマ取材の報告と2025年度の年間計画の展望をお話いたします。
初めての方や、昨年の内容を忘れてしまった方のための「オシラサマってなんでしょう?」入門ミニ講座もご用意いたします。
是非お気軽にお越しください。
皆様のご来場、お待ちしております!
偶戯を巡る vol.2
第二弾〈オシラサマを巡る東北取材の旅〉直後
採れたてホヤホヤ! 報告の宴
日 時:3月9日(日)19:00~20:30頃
※会場は18:45からお入りいただけます
19:00~ 「オシラサマってなんでしょう?」入門ミニ講座
19:30~20:30 岩手県のオシラサマ取材報告
★会の終了後、〈オシラサマ語らいスナック〉もひらきます。
こちらもお気軽にご参加ください。
〒154-0023 東京都世田谷区若林4丁目25−14 コーナー松陰ビル 2F
語り手:長井望美、藤原佳奈
定 員:20名程度
参加費:(選択制)1500円 or 2500円 or 5000円
※飲み物・岩手土産のお菓子付き
※関心度合いや懐事情に合わせて、金額をお選び下さい。内容に違いはありません。
参加費は取材経費に活用させていただきます。応援、ありがとうございます!
長井望美
人形遣い、人形美術家。人形劇団ねむり鳥主宰。
こども部屋の人形遊びから出発し、現在でも「人間の生命を映す友人、人形」と旅を続ける。他ジャンルアーティストとの共同創作や海外フェスティバルでの上演活動など。2019年ねむり鳥×コルグラフランスツアー、ロシアUnima Youth In Progress参加。日本の人形劇はどこから来て、どこへ向かうのだろう。起源を辿り、未来を思うこと。わたしたちが今どこにいるのか、地図を描くこと。
https://www.nemuridori.com/
戯曲作家・演出家。
わたしたちの〈はたらき〉を聴き、再編し、上演の場をひらく。長野県松本市と東京都世田谷区を拠点に活動。能楽堂や、取り壊し直前のアパート、居ぬきスナックなど様々な場所で「劇場」の機能を思考し、実践を重ねる。近年携わった作品は、高校生と創る演劇「Yに浮かぶ」(2020)、OriHimeプロジェクト「星の王子さま」(2021)、「夜明けに、月の手触りを」から、展(2023)等。世田谷美術館 Performance Residence in Museum 2023-24滞在アーティスト。2024年秋より、プロジェクトベースの劇場実践コレクティブ「松のにわ」を始動。
https://lit.link/matsunoniwa
オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・後編〉
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。毎週月曜日更新、最終投稿!!

オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・後編〉
2024年6月29日(土)取材 Day7.
黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京
記:長井望美
《えさし郷土文化館》
えさし郷土文化館に無事到着。ガラス貼りの箱型の建物に螺旋階段の収まったエントランスタワー(?)が出迎えてくれました。この中に展示が…?!ブラジルでガラス張りの教会の内部の湿度のやばさを体験して以来、ガラスの建物を見ると内部環境が心配になってしまうのですが、本館は別の建物(ガラス張りでない…)で裏の高台にあり、タワーから回廊で繋がっていました。そりゃそうか…(失礼しました!!)
お目当ては開催中の特別企画展「まじないと地域史」展。事前の問い合わせでオシラサマの展示があるということ。最後の取材に向かいます。


江刺地域の文化とオシラサマについて、学芸員さんにお話を聞くことができました。
《江刺地域の歴史と文化》
江刺地域(旧江刺市)は2006年の市町村合併で現在は奥州市の北東の地域になっています。かつては蝦夷(エミシ)が住まいし坂上田村麻呂の遠征にあい、平安時代中期以降は奥州藤原氏が権勢を誇った地域。(えさし郷土文化館は「歴史公園えさし藤原の郷」に隣接しています。)室町時代末期には伊達政宗が「よそから来た支配者」としてこの地を統治、独創的な政策を行ったそう。江戸時代は仙台藩領として伊達家が明治維新まで統治。農業がしやすい立地で、冷害飢饉が少なく、藩財政を支える穀倉地帯として栄えたそうです。
同じ現・岩手県下でも、県が置かれるまで四つの藩が置かれていたのですね。(近世では北半は南部氏の盛岡藩領、南半は伊達氏の仙台藩領。のちに盛岡藩から八戸藩、仙台藩から一関藩が独立。)同県内でも地域により行われてきた生活スタイルや文化の違いがあるということ。
地域の特色は…
・東北の他地域にみられる雑穀文化は少なく、江刺郡では農民も米を食べていた。
・家系が苦しく武家と兼業で内職を余儀なくされる侍もおり、様々な侍の内職逸話が残っている。農家と武家の婚姻も行われていた。
・百姓一揆は一度だけ行われたが、生活の困窮から税の減免を訴求するものではなく、役人の不正に対するものであった。寛政九年に一揆の首謀者三名は打ち首となるが、訴えを受け数千人の役人が罷免された。
他藩からの亡命希望者もあった、という資料も残っているとのこと。
伺ったお話から、土地・農民の豊かさから庶民が政治的・文化的にも自らが影響力を持ち得る存在である、という自認と誇りを持った地域性を感じられました。
《江刺地域のオシラサマ》
・呼称は「オシラサマ」「オヒラサマ」「ジュウガツボトケ」と多様。
・「ジュウガツボトケ」はオシラサマが地域信仰に根付いていた浄土宗の「詣りの仏」と習合した形態とみられる。普段はしまってある神仏(聖徳太子や阿弥陀様)の掛け軸を出して家の中に飾る祭日に、オシラサマも一緒に出してきてアソバセた。
・仙台藩領の民間祈祷師は「オガミサマ」と呼ばれていた。やはり視覚障碍を持った女性の職能であり、師匠のもとで祈祷・所作の修業を行い独立する。かつて大和宗にオガミサンの組合が存在した。現在では職能としてオガミサマは途絶えてしまったが、岩手県一関市(奥州市の南方向に隣接)の大乗寺に祀る後継者のいないオシラサマが200体ほどおさめられている。
・オシラサマの材質は桑製と竹製がある。竹製のものは岩手県南部地域から宮城県域にのみ見られ、オガミサマの祭具として継承される。
・「オシラサマアソバセ」の祭日は年に一度か二度、主に3月か6月に行われた。
様々な資料から、総数的にはオシラサマの祭日は小正月(1月16日)という地域が多いようですが、江刺地域は習合した仏教の祭日の影響を受けて月が異なるのでしょうか。
実際に江刺地域のオシラサマを拝見!
「まじないと地域史」展に展示されたオシラサマは二組でした。
・厨子に納められた包頭型(2体)
・箱に納められた貫頭型(2体)+包頭型(3体)


一組目はテルテル坊主のような包頭型(頭を覆いくるまれたもの)の上に、更に着物のように前合わせでオセンダクを多層重ね、紐(帯)で結わえる着付け。重ねられているのは赤い絹布でしょうか。着付けのふんだんな布使いにゆとりが感じられます。
オシラサマを納めている厨子もしっかりした技術で作られており、宗教者の家系・オガミサマ系譜の家のオシラサマであったとみられます。


二組目は、貫頭・包頭型混淆。娘と馬の貫頭型の頭が印象的です。
オシラサマのほとんどは製作者が不詳であり、仏像・彫刻などの特別な技術訓練を受けていない近隣の人が作ったのではないかとみられる素朴な造形も多数あります。ただし、青森の久渡寺で伺ったお話で、寺社と縁ある地域では関連の仏師が彫ったとみられるオシラサマも少数であるが存在するとのこと。「まじないと地域史」のこの一対は頭部造形に製作者の洗練された技術が感じられ、一体どういった経歴の作者が製作をしたのか気になりました。同館には江戸時代に京仏師が製作した中善観音も収蔵されていますが、仙台藩のルートで、京都からやってきた職人やその流れを引く技術者がオシラサマを製作することもあったのでしょうか??
手前の二体の包頭型のオシラサマは、本体はオセンダクに頭まで収まる小さなサイズ?布の中はどうなっているのでしょうか…。奥の背の高い一体は、番とはぐれたオシラサマでしょうか?どんな来歴があって五体の中に入ったのか…。
展示された両組とも恰幅の良い着付けで、比較的大柄。納める容れもの、着付け方法、布の選択に骨太の気風のようなものが感じられました。威風堂々、江刺のオシラサマ…。
《「まじないと地域史」展、ひとがたとまじないのデザイン》
民間信仰の神体であるオシラサマ。調べていくと、呪術、まじないという問題を避けて通れません。学芸員さんにお話を伺いながら企画展を拝見しました。
【身近な呪術】
「まじない」とは人々が様々な願望を叶えるため、超自然の存在に働きかけた一種の民間信仰です。…「おまじない」と聞くと、気休めや呪文の意味で使用される場面が多いですが、それは語感によるもので、科学・技術が発達した現代とは異なり、前近代までの人々は疫病や自然災害といった生活を襲う多くの困難を解決するために、神秘的な「まじない」つまり「呪術」の力に頼っていたのです。また、宗教における神霊と人との関係をみると、人は神霊に対しひたすら願い、すがり、崇め、恩恵を求めますが、呪術の場合は人と神霊が対等な場面もあって、ときには人が優位に立つことさえあります。つまり、「まじない」には心理的な側面が多いことから、かなりのものが現代にも存続しているとされ、今なお身近でアクティブな信仰とされるのです。
【まじないと思想】
日本で古代から行われてきた呪術には、中国などから導入された思想を端緒とするものが多くみられます。…陰陽思想と…五行思想の考えが融合し…日本独自の陰陽道が発展しました。…(中略)古代中国で発達した道教、インドで発達して中国を経て日本に伝えられた仏教の考え方の一つ密教…(中略)、これらに加え、古来より日本に存在する土着信仰や神道が習合(神仏習合)した結果、山岳信仰や修験道など、様々な呪術的好悪を行う日本独自の信仰や宗教観が発達。民間にも広く普及したことで、その観念はたとえ外来の信仰や習俗(クリスマスやハロウィンなど)であっても受容し、日常化させるという現代人の宗教観にも深く反映されているのです。
こうして外来の宗教や信仰と独自の思想が複雑に混淆したのが日本の呪術の特徴であり、ことさらに日常生活に溶け込み、定着したものは「まじない」として親しまれてきました。
(「まじないと地域史」展キャプションより抜粋、一部要約)
オシラサマの民間信仰としての東北地方での広がり、変容しながら続いてきた逞しさは、クリスマスやハロウィンを生活に受容する日本人の精神性、宗教観に連なるものであるのでしょうか。
刀剣や神像、呪符など様々なまじないに纏わる展示がありました。特に気になったものをご紹介します。紙幣や獅子頭など、いずれも不可思議な生命力を感じさせる人形(ひとがた)、あるいは生物(神霊?)のデザインが大変に魅力的でした。誰も見ていない隙に意志を持ち歩きだし、飛び上がり、踊り出し、自由にどこかへ去って行ってしまいそうな、まじないの造形物たち。現代の論理で可能な表現…「架空の生き物を象った造形物」…という言葉にとどめられない、存在の祭り、躍動するアニミズム。
▽藁人形群。岩手、青森の各地域で見た藁人形がここにも!造形の違いを見比べても面白いかもしれません。





▽紙幣



▽シシガシラ



《江刺地域の馬と牛》

こちらは入口のカウンターに飾られていた江刺地方の牛・馬の郷土玩具。牛は千両箱(金)を運んでいますね。馬ッコは八戸の八幡馬にも似ていますが、これまでに出会ってきた他地域の牛・馬と比較すると、作業工程の手数が多く、シュッとした造作に都会的なデザイン性を感じます。これが仙台藩領センス?!
江刺地方は蝦夷の時代から馬産が行われていましたが、仙台藩時代から馬産政策が講じられ、仙台藩の三大馬市のひとつに数えられる市がありました。近代以後は富国強兵や殖産興業などの国策によって広く一般農家でも馬が飼育されるようになり、日清戦争後は軍馬の需要が拡大し、大正時代には馬匹数も全国一位となり、名実ともに馬産王国の地位を築きました。第二次世界大戦の敗戦により、馬産や馬の育成は軍馬の需要がなくなった上、大規模な土地改良が進む中で陰りをみせ、昭和30年代以降は農業機械の普及によって農耕馬は急激に減少。現在、飼育されている馬は祭礼のためのものがほとんどであり、事実上の農耕馬は昭和40年代に終焉を迎えたと考えられます。
戦後は江刺地方は米の収益だけではなく、他産業との兼業によって農家所得の向上を目指し、和牛、乳牛、豚、養鶏などを普及していました。食肉需要の高まりに応じる形で品種改良をおこない、現在ではブランド牛の畜産で知られています。
(えさし郷土文化館web site常設展解説より抜粋、一部要約)
常設展示 – えさし郷土文化館 (esashi-iwate.gr.jp)
《東北取材、終了。》
土偶や、101体の中善観音など、気になるものが沢山あったのですが、同日夜中の帰京を目指すため常設展の観覧は涙を呑んで断念…。再訪しての全館巡りを祈念しつつ、えさし郷土文化館を失礼しました。
お忙しい中、取材のご対応・企画展のガイドしていただいた学芸員さんにこの場で再度御礼申し上げます。資料の件もお世話になりました。心より、ありがとうございました!!!

《旅の終わりに…》
藤原「わたし、最後に一度、東北の美味しいもの食べたいんですけど、お寿司屋さん行きませんか?!帰りのルート上で検索して、美味しいお店の目星つけてありますんで!!」
長井「お、おぉ…(本気だね)!!」
7日間の取材旅行中はお金と時間の節約策で、朝夜は自炊、昼はコンビニ食になりがち。オシラサマを辿る旅をしめくくる最後の晩餐のため、宮城県でいったん高速を降り、回転寿司塩釜港へ。


十数分ほど順番待ちに並んで無事に席へ。アフターパンデミック対応か、寿司のレーンは廻さず、お客が注文を紙に書いて渡した後、職人さんが寿司を握って出してくれる方式になっていました。新鮮な東北のお寿司、めちゃ旨!!でした。特にトビウオとアラ汁が美味しかったです。
偶戯チーム、高速に戻り、深夜2:00頃に帰京。最後まで肉食は避け、口は曲がらずに無事帰宅しました。
※肉食はオシラサマ信仰上のタブーとする地域がある
おつかれさまでした!!

6月の取材旅行の報告ノートは以上になります。
纏め作業も長丁場でしたが、長文をお読みいただきありがとうございます。
報告ノートを纏めながら、様々な気づきやあらたな疑問の発生を感じました。わからないことが多いからこそ人を惹きつけるオシラサマ。「手を出すと泥沼」という研究者の先達の言葉を首肯、痛感する時間でした。
纏めを終えて、東北にまた取材に伺いたいという思いと、得られた材料で自分は一体どんなものを創れるだろうか、とワクワクする気持ちがあります。
オシラサマ取材について、お気が付かれたことやご質問などありましたらお気軽にお寄せください。
guugiwomeguru@gmail.com
▽今回のリサーチを基に次なる取材や関連事業への展開を検討中です。「偶戯を巡る」企画の今後の展開にご期待ください!
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以後は不定期更新になりますが、今後も関連記事を投稿していきたいと思います。
オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・中編〉
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・中編〉
2024年6月29日(土)取材 Day7.
黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京
記:長井望美
黒森神社を失礼し、陸前高田市立博物館へ向かいます。陸前高田市はオシラサマの保有戸数の岩手県内、そして国内でも最多記録を誇る地域。平成十九年の調査では102戸(*岩手県立博物館調査報告書第23冊)とのこと!どんなオシラサマに出会えるでしょうか。
陸前高田市は2011年の東日本大震災で17メートルの津波に襲われ、1800人以上が亡くなった地域でもあります。市の中心部の土地を10メートル以上かさ上げし、復興を目指し新たな街づくりが行われてきたそうです。博物館に向かう車窓からも新しい印象の家屋・施設が目立ちました。
Am10:25 陸前高田市立博物館
さて、陸前高田市立博物館に到着!


陸前高田市立博物館は2011年の東日本大震災で全壊。同じく全壊した海と貝のミュージアムと合築して新設し、発災から約11年8カ月後の2022年11月に現在の姿で開館されたそうです。
入館するとまず、被災した収蔵品の修復作業をリアルタイムで見学できるガラス張りのブースがありました。

…被災した資料は、陸前高田市立博物館をはじめ、4つの文化財関連施設に収蔵されていたものを合わせて約56万点であり、うち救出された資料は約46万点に上ります。これらの被災資料を再生させるための取組が、震災直後から日本博物館協会、東京国立博物館、国立科学博物館、岩手県立博物館をはじめとする全国の専門機関や大学の支援のもと行われてきました。津波で被災した資料の再生は、国際的にみても経験がなく、その方法は未確立であることから、修復作業に取り組む多くの機関では、直面する様々な困難を克服しながらの処理作業が今も続いています。
これまで取り組んできた津波被災資料の再生については、その修復技術を館内で公開し、文化財保存の重要性を発信するとともに、近年、全国的に発生している土砂災害等の様々な自然災害によって被災した資料の再生活動の一助となるよう、努めてまいります。…
ー2024年5月「館長挨拶」より引用
館長挨拶/陸前高田市ホームページ (city.rikuzentakata.iwate.jp)



偶戯チームは入り口から入って、なぜか誤って案内図⑨の体験・学習の展示室から逆順路…未来から太古へ遡るルート…で見学してしまったのですが…(それはそれで面白かったby藤原)、正順路は①「大地の成り立ち」、②「奇跡の海 三陸」、③「海をあがめ 海にあらがわず 海と生きる」、④「資料が語る陸前高田の歴史」。⑤「博物館学の世界」、⑥「宿命とともに生きる」、⑦「よみがえる博物館」、⑧「貝たちの部屋」、⑨「発見の部屋」。
各展示の内容、全体の構成、ともに非常に興味深く拝見しました。陸前高田市立博物館は2023グッドデザイン賞を受賞をされたとのこと。
ふるさとの宝である文化財・展示資料が被災し、無くなるということは、歴史や記憶という価値が失われることであり、陸前高田が陸前高田である証が消えることを意味する。震災によって新しい街は時間の経過と共に開発され、記憶の痕跡は区画のみに宿ることも多く、その過程で失うものは数知れない。きれいな街ができたとしても文化、歴史、自然を伝え、記憶の拠り所となるモノがなければ、それは単なる新しい風景であり、心が無い。震災を経て資料を救出すること、それは新しい資料としての生命を新たに据えることであり、かつての記憶の回収であり、つまりは陸前高田の証を心と共に復興することを意味する。新たに付加された資料の意味を踏まえた展示空間の企画、これは世界中の人々がターゲットとなった未来を問う展示のデザインとなることが背景であり、意味でもある。
ー2023グッドデザイン賞「陸前高田市立博物館」受賞対象の詳細 背景より
※デザインは株式会社丹青社デザインセンターによる
私自身も、人形という「もの」を媒介とした芸術表現の従事者であり、人間とものの関係性についてよく考えることがあります。殊に「偶戯を巡る」企画では、なんらかの必然性で生まれ、時間を重ねて発達し、成熟し、しやがて変容し、失われていく人形劇文化・技芸を、現代を生きている従事者としてどう捉え、何をしていけるのかを考えてみたい、という動機もあり、取り組んでいます。陸前高田市立博物館の展示は、被災という切実なきっかけから、より強い輪郭を持って顕れた「もの」のもつ記憶の力や、その背後に息づく人々の関係性を実感させるものであり、同時代を生きる人間が「もの」の価値をどう捉え、どう選択し、どう扱い、未来へどう残していくのか、ということを非常に考えさせられる体験でした。
《発見の部屋》
真っ先に足を踏み入れた陸前高田の文化を体験・学習できる展示室。子どもさんの姿が目立ちます。




オシラサマ関連は、オセンダクを着せ重ねる体験コーナーと、レプリカを自由に手に取ってアソバセテよいコーナー、二枠も!さすが国内最多地域!!
包頭型のオシラサマレプリカは、写真や展示を見て想像していたよりも柄が細くて驚きました。チリトリの柄のような…。形状から、ついレプリカを持ってパタパタしたくなるような、人形というより機能を持った道具を握ったときのような体感を受けました。
貫頭型のオシラサマを両手に持ってみると、ピッ!と、人形を持った際に起きる、両手に持った人形(ひとがた)を動かして物語を語りたくなる衝動の発生を感じました。「棒は人形劇の元祖である」説を実体験した思い。
学芸員さんのお話では「オシラサマを持って遊んでくれるこどもさんが、意外とまだ少ないのですよね…。」ということでした。「オシラサマはアソバセたほうがよい」と言われますから、発見の部屋のオシラサマも来館者にもっとアソバセテもらえますように…。

オシラサマ関連展示は、解説のボード一枚と二組のオシラサマ(レプリカ)でした。
陸前高田市内ではオシラサマは「オッシャサマ」と呼ばれていたようですね。解説ボード右側のオッシャサマソバセの写真は、オッシャサマを身体に当てて無病息災を祈願しているところだそうです。女性たちの笑顔から和やかな場の様子が伝わってくるようです。


お忙しい学芸員さんが合間にお時間を作ってくださり、陸前高田のオシラサマについてお話を聞くことができました。
陸前高田市立博物館で平成二年(1990年)に市内で行ったオシラサマ調査を纏め、図録を出版されています。この図録は現在は頒布されていませんが、館内で見せていただきました。保有する家一戸につき一頁を割り当て、オシラサマの写真と共に、保有する家の方に聞き取り調査をした項目がまとめられていました。
以下、図録やお話の中で印象に残った事柄を挙げてみます。
・この地域ではイタコに照応する民間信仰の巫女は「オガミサマ」と呼ばれていた。
・着物が多くなると古いものは脱がせて親類に分け与えるとか、子どものお手玉やオハンネリ袋(賽銭や米を入れる袋)や枕などを作ったり、あるいは焼いて灰にして川へながしたりした。 (上記図録より引用)
・古い時代はお寺が少なく、人や馬が死亡した際に、オッシャサマが引導に使われたといわれています。即ち男性が死んだ場合は男神を、女性の場合は女神を、侍が死亡した場合は烏帽子を、馬が死んだ場合は馬頭神を、それぞれ使い分けたという伝承が残されています。つまり、オッシャサマは、神の使いであり、仏の使いでもあったのではないだろうかという説もあります。 (上記図録より引用)
・ほとんどの場合、貫頭型のオシラサマのオセンダクは断ちっぱなしの一枚布を被せるように着せ、家によっては帯や紐で結わえたものもある、という認識だったのですが、人形の着物のように小さな着物を縫製(あるいは断ちかたを工夫しているのか)して羽織のようなものを着せている写真があったのが印象的でした。
また調査で子持ちのオシラサマも見つかっているとか。


・オシラサマを博物館で展示した際、オガミサマを呼んだところ、「もとは家にいて人に会うことも少なかったが、博物館に展示されて毎日たくさんの人が訪なってくれ嬉しい。ただひとつ、誰もお供え物を持ってきてくれないことが不満だ。」とオシラサマがおっしゃった、とのこと。以降、博物館でオシラサマを展示する際にはお菓子などをお供えするようになったそうです。現在展示されている二対のオシラサマは、被災後に製作されたレプリカですが、展示ケースの中に学芸員さんがお供えした個包装のクッキーも置かれています。
陸前高田の絵馬もご紹介。
《猫絵馬》
地域の祈りと動物の関係性が気になる絵馬。絵馬に描かれる動物は、馬、牛、と来て…、陸前高田ではついに猫が登場!

矢作町(やはぎちょう)にある猫淵神社は、養蚕農家が厚く信仰した神社です。祠の中には猫の木像とともに、500枚を超える猫絵馬が奉納されています。養蚕農家にとって、蚕の繭を食い荒らすネズミは害獣で、それを駆除してくれる猫は蚕の守護神と考えられていました。
猫が育たない家では絵馬を一枚借りて家に掛けておき、猫が無事に成長したら、借りた絵馬に新しい絵馬を添えてお礼参りをしました。
養蚕農家の信仰を集めた神社も、市内の養蚕業が衰退したあとは、飼い猫の守護神として信仰されました。
ー猫と人間をつなぐ 猫渕神社(陸前高田市立博物館キャプションより引用)
蚕の守護神としての猫!!オシラサマは養蚕の神でもありますから、猫とオシラサマには意外な共通点があったことに???
この絵は、猫の飼い主が描いたのでしょうか?何とも言えない良い味を出していますね…。
《失せ物絵馬》
そして、海辺の地域独特?!動物以外が描かれたこんな絵馬も展示されていました。
失せ物絵馬ー海の神 龍神を鎮める紙の絵馬
漁をしていて海中に誤って刃物などを落としてしまったときは、海の神が機嫌を損ねて不漁にしてしまうとか、竜神が恐れて不漁になってしまうなどと伝えられています。これを避けるため、漁師は浜に戻ると、すぐに紙に失くしたものの絵を描いて神社に奉納しました。これを失せ物絵馬といいます。
(陸前高田市立博物館キャプションより引用)



海に大切なものを落とすのは大変な事態だったのでしょうけれど、漁師さんの手描きの絵に素朴で大らかな美意識が顕れているなぁ、と興味深く拝見しました…。文字で大雑把な絵の情報を補っているのも面白いですね。
《震災後のオシラサマの企画展、coming soon....!!!!》
平成二年以降、オシラサマについての大々的な調査や展示は行われて来なかったそうですが、東日本震災で気仙町など保有していた家がほぼ被災した地域もあり、震災を経て現在、陸前高田のオシラサマや信仰は今どうなっているのか、目下調査を進めており、来年初旬に企画展示を行う予定だそうです。
現在進行形の実態調査、企画展の計画…!
取材旅行の最終日にホットなオシラサマニュースに遭遇です!!
来年の特別展示への再訪をお約束して、お昼休みを返上して対応してくださった学芸員さんにご挨拶をし、博物館を失礼しました。ありがとうございました!!!
取材旅行の最後の訪問先は、「まじないと地域史」展を開催中のえさし郷土文化館(岩手県奥州市)。七日目後編に続きます!

オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目前編〉
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目前編〉
2024年6月29日(土)取材 Day7.
岩手県宮古市ゲストハウス→黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京
記: 長井望美

Am8:17 黒森神社
前日に宮古市史編さん室でお話を伺った黒森神楽の拠点・黒森神社。黒森山は滞在した市内ゲストハウスから車で少しの距離とのこと。この日は黒森神社から取材をスタート。

宮古市内の家々の間の狭い路地を抜け、山道を車で登っていきます。ほぼ一車線分の道幅…
(訪問後山から下る際に、下から登ってきた…おそらく神社の清掃のおじいさんの…車とすれ違ったのですが、先方が下り坂の急勾配をアクロバティックに後退してくださり、車溜めで無事にすれ違うことができました。地元の方の運転技術も勇壮な黒森神社!!)
登りの車道の途中に案内図が立っていました。(以下、案内図より抜粋)
《黒森山案内図》
解説(一) 文責:伊藤麒市
黒森山は神奈備(かんなび)系神体山(低山・優美・分水嶺)で二千年前から閉伊全域の信仰の対象とされて来た山である。平安~鎌倉期に神仏習合の影響をうけ、本地仏聖観音として定着し、人の世の苦難救済の本願所となった。室町時代にその権現として獅子頭が奉納され、農閑期には毎年豊作を祈念して村々を巡行した。
現在二十数頭の獅子頭が保存(大半が県指定有形文化財)されていることは全国的にも珍しい。元文四年(一七三九年)迄は文字通り黒森で直径1m~4mの巨杉巨松などが百数十本あった。義経・弁慶主従が黒森の滝で三年三月の行をした伝承もこのあたりから生まれたものであろう。真言密教の祈願社として南部藩主から篤く崇敬されていた。
昭和五十八年十二月十三日指定
昭和六十二年三月指定
平成二年七月十九日指定
解説(二)
黒森山内図は資料に基づき(一部伝承)作製したものである。
黒森山は、旧参道を登り、いたこ石から「古黒森」に至る道中が素晴らしい。「古黒森」は黒森祭神の始まりの場で古墳と推定される。後年御本社旧殿跡、現社殿へと移転した。現社殿は嘉永三年(一八五〇年)の建立。
…
平成三年六月吉日 …(以上抜粋)

いろいろ気になるキーワードが出てきますが、ここで、オシラサマを辿る取材旅に頻出する言葉「神仏習合」についてみてみたいと思います。
《神か仏か混淆か》
【神仏習合】(しんぶつしゅうごう)日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合調和すること。奈良時代に始まり、神宮寺・本地垂迹(ほんじすいじゃく)説などはその現れ。神仏混淆。
【神仏同体説】(しんぶつどうたいせつ)神と仏とは本質において一つあるとする説。本地垂迹説もその一つ。
ー広辞苑第五版より引用
「神仏同体説」については、5日目に青森の久渡寺で住職にお聞きしたオシラ講の由来…「民間信仰の神であるオシラサマを歓喜天(かんぎてん)という仏と同体であるとして寺に迎え入れた」というエピソードでも登場しました。 オシラサマを辿る東北取材ノート〈5日目〉 - 偶戯を巡る (hatenablog.com)
黒森神社は修験者(山伏)が修業を行う神仏習合の霊山だった、ということ。明治以前は修験者と巫女がペアで活動し様々な儀式を職とし、オシラサマの儀式も行っていたのではないか、という説があるそうです。後世、修験道由来の黒森神社の神楽衆が家の人に請われてオシラサマをアソバセることには一定の親和性があったのだろう、と考えられます。オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目後編〉 - 偶戯を巡る (hatenablog.com)
広辞苑の【神仏】項目はまだ続きます…
【神仏分離】(しんぶつぶんり)維新直後の明治政府の宗教政策の一つ。慶応四年(一八六八)三月の神仏判然例など神道国教化をめざして行われた一連の政策により、神仏習合を否定し、神道を仏教から独立させたこと。
ー広辞苑第五版より引用
べつべつに存在していた宗教が合体させられ、後世にまた分解……。神が仏にさせられて、また分けられる?神が弾圧されたり、仏が弾圧されたり、の時代がそれぞれに存在した…。不合理な歴史のように感じられますが…。
手塚治虫氏が漫画『火の鳥 太陽篇』で神仏習合前夜の日本の神と仏の争いを描いています。
秋田在住の小学校時代(30年前😢)、図書室に置いてあった数少ない漫画が『はだしのゲン』と手塚治虫でした。当時の秋田の小学生は今日より漫画を読める機会が少なく(コンビニ、インターネットはまだ普及していなかったし、お小遣いも微々たるものでした…。)図書館においてある漫画本を競って読んだのでした。私も戦争の描写や人間の影も描く作風を「怖いなぁ…」と思いながらも心惹かれて、ボロボロになってページが破れた『火の鳥』を昼休みに開いたのでした。
『太陽篇』は犬の頭をかぶせられた主人公が印象的な、シリーズ最長にして最終篇となったエピソード。主人公の意識が7世紀と21世紀(当時は未来だった)の日本を行き来しながら自らの運命に迫っていくという物語で、土産神と大陸から渡ってきた仏の戦争が未来の諍いと重なっていく構成が見事でした。子ども心に、終盤、産土神に迫る仏の形相がクワッ!!と鬼のように変わったのが恐ろしかった…。
「信仰というものは人間がつくったものであって、宇宙の原理とか言ったものではなく、時代とともにどんどん新しい文化として取り入れられていき、そこで必ず古い宗教、文化との葛藤が生まれ、それによってまた新しい世界が生まれてくる。その繰り返しなんだということを描きたかったのです。」
ーーーー以上、手塚治虫公式サイトより抜粋
火の鳥(太陽編)|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL
歴史を学ぶ際、政治と宗教を切り離して考えることは困難です。
川尻泰司は著書『日本人形劇発達史・考』で、人形劇の発生・発達の歴史と、人々の祈り、呪術、信仰、宗教の関連性にも言及しています。
オシラサマを辿る旅でこれらの指すものについてより意識的に考えるようになりました。
人間が生きていくために、生活の中から必然的に祈りが生まれてくる。集団が大きくなると規則が作られ、祈りにも決まりごとが制定され、信仰の形式が形作られていく。集団の信仰は強いエネルギーを持つため、宗教が権力と結びついたり、宗教自体が権力を持ったり、為政の都合で変容を強いられたり、異なる宗教間に葛藤が生まれたり…
祈りというものが生きることと切り離せないからこそ、それを原動力として、宗教・信仰が人々の生活を助け倫理や秩序を産み文化の発展にも寄与してきた一方、戦争や弾圧のトリガーにもなるなど様々な事象が生まれてきました。
東北で出会った民間信仰の神々(仏)の外的・内的な変化を受容し、変容し続けながら時代を超え人々に親しまれ、今日に姿を伝える、底の知れないしたたかな姿は、時代・環境の変化を超えて生き抜こうとする人間の、生命の、したたかさをも、反映しているのかもしれません。
さて、駐車場に車を停めて、徒歩で本殿に続く階段を登ってゆきます!
《イタコ石と女神の嫉妬》


参道の階段の登り口に祠があり、石が祀られています。案内図にあったイタコ石!
イタコ石
当時、黒森神社は女人禁制のお山であった。何処よりか行脚の巫女来り、女人禁制の当山に登らんとす。麓より銭橋をかけて登しが、村人その下山の遅きを怪みて尋ねしにこのいたこ石の所にて銭橋絶え草履を残して行方不明となりしかば、村人憐れみてこ処に石碑を建立せしものなりと、
●慶安3年(1651年)建立。
●一尺八寸の石碑、文字などは流れて見えず。
●銭橋、道に銭をしきて渡ること。
●旧道の峠より昭和50年移す。
●平成6年5月吉日、祠を建てる。 ーーーー以上、イタコ石解説板より引用
女性アーティストのチームである「偶戯を巡る」としては色々気になる石碑です…。
・ここで言う「イタコ」とは…??
ー宮古市内の民間信仰の巫女はミコ、という名称であると伺いました。しかし、宮古で
の巫女関連のお話の中にイタコという名称も混じっていました。イタコが岩手北部・
青森から宮古までやってきていたのでしょうか?
「イタコという名称が有名になり、東北の民間信仰の巫女の代名詞的になっていった
という現象があると思われます。ですので、イタコと表現されている巫女でも、正確
には他地域・他流派の民間信仰の巫女を指している場合もあったかもしれません。」
(宮古市史編さん室で聞いたお話)
・また、女人禁制の山・神社というトピックスは、早池峰神社の祀る早池峰山についての資料でもみかけました。
ー「遠野物語」二話に、女神の三姉妹が夢勝負をして末の妹神が勝利し、母神より早
池峰山を賜ったというエピソードがありました。なぜ女神が統括する山でも女人禁制
とされたのでしょうか?
「はっきりこういう由来がある、ということはわかりませんが、日本の民間信仰のな
かに山というのはもともと女性であるという考えもあったようです。女神が山に入っ
て来る女性に対して嫉妬してしまい、よくないことが起きることを避けるため禁制と
されたという説です。女神を怒らせないためにお供え物には醜い面相の物…オコゼな
どを供えていたという山の話もあります。」
(青森県郷土資料館で聞いたお話)
嫉妬をする、という行為は人間らしく親しみのもてる女神だと捉えられていたのか、
山の事故や災害の苛烈さが女性の嫉妬に例えられるということなのか…???
昔は現代よりも山に入ることにより多くの危険が伴っただろうので、子供を産み育てる女性を遠ざける必要があった、ということもあるのかな???と私的に考えたのですが、現代人女性の感覚としてジェンダーとルッキズムという観点で、突っ込みたい部分が沢山あり…。
女人禁制のお山の由来、気になります…。
《黒森神社本殿、神楽殿、修復と新築》



紫陽花は七月が最盛期になるとのこと。八分咲きを楽しみながら、ひたすら階段を上り境内を目指します!足腰の強さを問われる段数。朝から健康的!!

階段を登りきると、まず目に飛び込んでくるのは神楽殿。木材の色も新しく、近年に新築さただろうことが窺われます。

2019(令和元)年には黒森神楽を奉納する神楽堂が建築され、境内木の枝打ちなど神社境内の整備も行われたそうです。
本殿は市内最古の木造建築のひとつに数えらるが風雨雪のダメージが蓄積し、宮古市と住民チームがクラウドファンディングなども行い全国に寄付を募り、2020年(令和二年)に86年ぶりに修復されたそう。




建築物として非常に見事だと感服したのですが、嘉永三年の建立時に、宮古代官所が主体となり、江戸の廻船問屋や宮古・鍬ケ先の漁業関係者、管内の村々から金品が寄進された(黒森神社本殿解説板より引用)、とのこと。当時の宮古の港の賑わいが思われます。

気になる絵馬コーナー。黒森神社の絵馬は権現様のお頭が焼き印で押されていました。
残念ながら今回の取材では黒森の権現様の実物は拝見できなかったのですが、後日、祭り・郷土芸能の愛好家の方がブログに投稿された令和四年に行われた権現舞の映像をみつけたので、ここでご紹介します。
獅子舞のように舞手が布をかぶり自身の姿は獅子の中に隠し舞う形態を想像していたのですが、この映像では、舞手が外側から両手で権現様を操るスタイルで、布で作られた身体部分も外側からあつかっていることがわかります。
「権現様を舞わす」という表現もあるようです。
人形使いにも共通するスタイル・技術であり、これは気になる…。黒森神楽、実際に上演をみてみたいものです…。
引用元のブログ 祭りの追っかけ 黒森神楽「権現舞」@2022黒森神楽春季神楽祭 (fc2.com)
《神神の形》
また、本殿の脇に幾つか祠があり、それぞれ違った神が祀られていたのですが、山神を祀った祠、片目の不動明王を祀った祠、二祠の信仰の形のあらわれ方の違いが面白いな、と興味深く拝見しました。



朝の山の清廉爽快な空気の黒森神社散策を満喫しました。
最終日の取材はこの後、7日目後編…→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京 と続きますが、長くなりましたので、続きは後編に!!

オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目後編〉
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目後編〉
2024年6月28日(金)取材Day6. 恐山(青森県むつ市)→宮古市立図書館(岩手県宮古市)→川井村北上山地民俗資料館(岩手県宮古市)→宮古市 記:長井望美
3日目に訪問した岩手県立博物館で「岩手県内でオシラサマにゆかりのある土地、オシラサマと言えば訪問すべき場所はありますか?」とお聞きしたところ、
「オシラサマ自体が家の中で行われる信仰であったため、県内でオシラサマについて一般に公開されている場所はほとんどありませんが…。そういえば、宮古沿岸の黒森神楽の神楽衆が訪問先でオシラサマをアソバセていたという記録をみたことがあります…」とのお答えが。

黒森神楽について宮古市教育委員会へ問い合わせたところ、宮古市史編さん室をご紹介いただき、市史編さん室のある宮古市立図書館の二階を訪問させていただきました。


《黒森神社・黒森神楽とは?》
-----以下、宮古市役所web siteより引用 岩手県宮古市 黒森神楽 (city.miyako.iwate.jp)
黒森神社と権現様
標高330メートル余りの黒森山は、宮古市街地の北側に位置し、かつては、その名が示すように一山が巨木に覆われ欝蒼として昼なお暗い山であったという。山頂に大きな杉があり、宮古湾を航海する漁業者などの目印(あて山)ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として広く信仰を集めてきた。
黒森山麓の発掘調査により、奈良時代(8世紀)のものとされる密教法具が出土し、黒森山が古代から地域信仰の拠点であったことが窺われる。黒森神社は近世(江戸時代)までは、「黒森大権現社」などと呼ばれ神仏習合の霊山であった1334(建武元)年の鉄鉢(県指定)をはじめ、1370(応安3)年からの棟札が現存し、歴代藩主によって手厚く守護されてきた。権現様(獅子頭)は、南北朝初期と推定される無銘のもの、1485(文明17)年のものをはじめ、20頭が「御隠居様」として保存されている。黒森神楽の起源や巡行の始まりは不明であるが、1678(延宝6)年には現在のような範囲を巡行していたことが、盛岡藩及び地元の古文書で確認できる。
神楽の巡行
黒森神楽は、正月になると黒森神社の神霊を移した「権現様」(獅子頭)を携えて、陸中沿岸の集落を廻り、家々の庭先で権現舞を舞って悪魔祓いや火伏せの祈祷を行う。夜は宿となった民家の座敷に神楽幕を張り夜神楽を演じて、五穀豊穣・大漁成就や天下泰平などの祈祷の舞によって人々を楽しませ祝福をもたらしている。この巡行は旧盛岡藩の沿岸部を、宮古市山口から久慈市まで北上する「北廻り」と釜石市まで南下する「南廻り」に隔年で廻村し、近世初期からその範囲は変わっていない。こうした広範囲で長期にわたる巡行を行う神楽は、全国的にも類例がなく、貴重な習俗が現在も継続されていることから、平成18年3月に国の重要無形民俗文化財に指定された。
《宮古市史編さん室で伺ったお話》
ー黒森神楽衆がオシラサマをアソバセる、ということは実際にあっ
「黒森神楽は沿岸部で巡行を行ってきたというのが活動の特徴とし
ー黒森神楽衆というのは男性ですよね?男性がオシラサマをアソバセル、という例は初めて聞いたのですが…。
「神楽衆は確かに普段は一般の男性ですが、お神楽に臨む間は性別を超越し神に近い存在とされるので問題がなかったのでしょう。」
ーなぜ、家の方は黒森神楽衆にオシラサマをアソバセることを頼んだのでしょうか?
「オシラサマをアソバセられる巫女がその地域に来なくなったなどの事情があったのだと思います。オシラサマはアソバセた方が良いとされているので、訪ねてきた黒森神楽衆に頼んだのでしょう。黒森神楽衆がふだんからオシラサマをアソバセていたということはなく、特殊な事例であったと思います。」
ー宮古地域でのオシラサマ信仰はどういった実態だったのでしょうか?
「江戸時代に新里、川井など、山の方で養蚕が行われるようになりました。第一次第二次世界大戦時、絹の需要が増え大正時代は宮古でも養蚕が盛んにおこなわれました。その頃にオシラサマも宮古に入ってきたのかもしれません。オシラサマを祀るのはある程度財力がある家でしたが、村に一軒、二軒あってもおかしくはなかったと思います。」
ー黒森神楽を調べていた時に、お神楽と一緒に巫女舞や湯立託宣の写真を見たのですが…
「陸中沿岸地方には神子【みこ】と呼ばれる民間信仰の巫女がおり、北部にいるイタコさんに照応するような存在です。」
国指定文化財等データベース (bunka.go.jp)… こちらによると、宮古ではミコさんがオシラサマをアソバセていたようです。そしてミコさん文化も継承の危機に瀕しているよう。
「宮古でもオシラサマは農業、漁業、養蚕の神さまで、オシラサマアソバセの日にお祓いや託宣、日忌(ひいみ)おろしなどを行っていたようです。家と親族間での行事ではありましたが、ミコさんが来るので近所の方はあそこの家にはオシラサマがいる、というのは知っていたのではないでしょうか。わたしも1月16日にオシラサマを祀って出しているのを見せてもらったこともありましたが、それももう十年以上昔のことになりますね。」
ー宮古市内で他にオシラサマを見られたり、お話を聞ける場所はないですか?
「宮古市北上山地民俗資料館に二対ほど展示してあったのではかったかな???」
と資料館の資料目録を出してきてくださいました。

それはぜひ訪問したいと申し上げたところ、今から移動したら閉館時間ぎりぎりの到着になるのでは?と危ぶみ、市史編さん室から資料館に電話で確認してくださいました。
「オシラサマについて調べているという人たちが関東からいまこちらにきているのだけど…そっちに確かオシラサマが一対か二対あったでしょう…、折角だから今から見に行きたいと言っているけど、時間があれですが、見せてもらえますか…。大丈夫ですか、はい、ありがとう…、エ、オシラサマは2対じゃない?五対もあるの?!」
思ったよりたくさんのオシラサマを拝見できそう。嬉しい誤算です!
温かいご対応とご親切に感謝し、市史編さん室を失礼して、急ぎ資料館へ向かいます。


おかげさまで資料館にぎりぎり滑り込むことができました。
資料館全体をじっくり見る時間はなく、オシラサマ関連の展示にフォーカスして拝見。通過することしかできなかった他のコーナーも大変面白そうで時間不足が残念でした。
この東北取材の七日間で岩手・青森の民俗資料館や博物館をいくつも訪ねました。館ごとに学芸員さんたちが地域文化と歴史の保存・伝承を、敬意と情熱・創意工夫をこらして行われており、様々な個性が顕れていることに感銘を受けました。博物館、郷土資料館、面白いです。
そうだ、博物館、行こう!!
地元の、旅先の、博物館、郷土資料館に出かける習慣を広げていきたいなと思いました!!みなさまも、是非、行こう、博物館!!
《川井村地域のオシラサマ》
展示されていたオシラサマは6組。すべて貫頭型でした。
オシラサマの頭とオセンダク(着物)の組み合わせ、入れられている箱や籠、行李など、それぞれに個性があり、6組すべてから、各家庭の刀自(主婦)に大切にお世話をされていたのだろうな…と思わせられる痕跡が感じられたのが印象的でした。
うち5組のスケッチ、そして長井が感じた印象をご紹介します。

色の取り合わせも美しく、若いころから村のファッションリーダー的な存在だったおしゃれな女性のお家のオシラサマだったり…と想像しました。




後日談として、学芸員さんに川井地域のオシラサマについてお電話で幾つか質問をさせていただきました。
この地域では、民間信仰の巫女(イタコなど)はあまり登場せず、オシラサマアソバセは家庭の女性やこどもたちだけで行っていたそうです。
「わきあいあいと楽しく遊ばないと怒られる。」というルールがあったとか(!!!)
《気になる宮古の馬事情…》
さて、馬にまつわる文化事情はこの地域ではではどうだったのでしょうか。
宮古街道 ウマとウシ
宮古街道は城下盛岡と沿岸宮古を結ぶ街道で、現在の国道と重なる所もあれば、山越えや谷沿いの難所も多くありました。当時の物資輸送の手段は牛馬が主流で、街道沿いの集落には「まぐさ宿」や「馬車宿:があり、繁盛しました。村内では一里塚が一か所確認されています。川井村はかつて場産地としても有名でしたが、次第にウシの飼育が主流になりました。春から秋にかけてはぼ牧野に放牧し、冬は厩で飼育しました。人々はウマヤウシを、農耕や運搬の動力として活用しました。堆肥を畑作に利用し、子ウマや子ウシを「おせり」で売って収入を得ました。厩の敷き草や冬場の餌となる「ひくさ」はカヤやクゾなどの草です。二百十日を過ぎた頃に山で刈り、現地に「しま」を立てて乾燥させてから家に運びます。この「ひくさ下げ」は「結いとり」で行いますが、一人が四、五しまもの「ひくさ」の束を「背負い台」に結いつけて運び出す、大変な重労働でした。
展示品のなかに「馬が重要な存在であった」と痛感させられる馬関連の品物も。
馬を守るお札の版木があったり…
▼「猿引神馬版木(さるひきしんめはんぎ)」
早池峰山善行院で遣われていた守り札の版木で、早池峰山の駒曳き猿として馬産家に信仰された一枚摺りの守り札の版木。
信者に拝まれお神酒を挙げられていたという馬の内臓などの病気の治療法が描かれた巻物があったり…
▼「伯楽秘伝書(はくらくひでんしょ)」
そして、ともに生きる動物は馬から牛へ…。となってくるともちろん?!牛を描いた「絵馬」ならぬ「絵牛」!?もありました!
共に暮らし共働する動物の存在に、人々は多産や労働種としての健康など実利的な観点以外に、愛着や感謝からも祈ったのでしょうか。
Pm17:20 小国・善行院(川井村小国地区関根)
閉館時間17:00,資料館を退出。まだ日も高いのでもう少し動けそう。
資料館の展示で見かけた、“天正二年(1574年)銘の「オシラサマ」(※スケッチの1枚目)が伝えられていたとされる寺”に足を運んでみましたが、廃寺となっていました。


宮古市内ゲストハウス宿泊。
PM:18:00頃 本日も日が傾き始める頃に取材終了です。スーパーで晩飯の材料を調達し、ゲストハウスに向かいます。
ゲストハウスのオーナーさんに宮古市での今日の演劇・人形劇事情をお尋ねしました。
「宮古など沿岸には上演活動を専門的に、あるいは恒常的に行っている団体は少ないとおもいますね…。(※)盛岡や内地の方に行くと劇団がいくつもありますし、人形劇をやっている人も、たしか、いたんじゃないかな?盛岡ではいろいろな舞台公演も行われています。ただ、宮古では地域おこしの取り組みとして一般市民の参加者を募って市民劇を上演する企画を数年前から続けており、多世代が参加しています。」
(※2011年の東日本大震災の影響もあるようです)
柳田國男翁が論じた「オシラサマは人形芸能の元祖なのではないか」という説を辿って旅をしてきた東北。オシラサマ以外にも、驚くほど様々な人形(ひとがた)が存在し、それらを媒介とした人々の信仰に出会いました。
「人形(ひとがた)を動かし、他者に示す行為」から、この行為がショウアップされて行き、「人形製作・遣いの技術が発達し、人形芝居へ発展し、専門性が生まれ、観客に評価基準が生まれ、やがて人形芸能が職能化する」…の間には、確かな距離があり、「人形(ひとがた)を介した信仰で人形を動かす」行為から「人形芸能」が派生してゆく…間にどういった条件が揃う必要があるのか、ということを改めて考えてみたい、と思いました。
ちなみに夕飯にはアブラガレイ(このお魚、初めて調理した!)の煮物をつくったのですが、ゲストハウスの他の宿泊者の方々…、東南アジアからみちのく潮風トレイルに参加しに来たという華僑のカップル、東京から運転免許合宿と農家のお手伝いに来たという十代の女性…とお話が盛り上がり、写真を撮りそびれました…
→さて、取材旅行はいよいよ最終日。7日目は岩手県宮古市→黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京 とめぐります!!
オシラサマを辿る東北取材ノート〈5日目〉
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

オシラサマを辿る東北取材ノート〈4日目〉
2024年 6月27日(木)取材Day5. 青森県十和田市~弘前市~青森市~むつ市
記:藤原佳奈

5日目の朝。ホステル近くの十和田湖を散歩した後、車を走らせ弘前市の真言宗寺院久渡寺へ向かう。
久渡寺は、明治期以降に津軽地方でオシラ様信仰の中心となった場所。オシラサマを少し調べれば、『久渡寺』の情報には突き当たるが、いまいち寺とオシラサマの関係がつかめないままだった。
前日、八戸の博物館を訪ねた際、『久渡寺系』だと言って見せてもらったオシラサマ。キンキラの布に、首元には鈴。久渡寺のオシラサマだけ、なぜあんなにゴージャスなのだろう……


11時頃、久渡寺へ到着。
入口から、山の中に向かって長い石段の参道が伸びている。
そういえば、オシラサマが入っている木箱を背負った女性たちが、この長い石段を登っていく姿を、資料の写真で見たことがあった。
久渡寺では、毎月5月15日、16日がオシラサマの祭日となっている。
一段一段、息を切らせて登りながら、様々な地域から集った女性たちが、新緑が映える5月にこの階段を登って行ったその風景、女性たちの背にあったオシラサマのことを想像した。祭日には、秋田や北海道からも人が集ったと聞く。


本堂に入り、住職にご挨拶。
オシラサマと久渡寺の関係についてお話を聞かせていただいた。
(本堂の中では撮影をしていないので、以後、写真記録はない)
住職曰く、オシラサマはもともと修験者の呪具として使わていたと考えられるそう。
修験者が今のオシラサマにあたるものを呪具として持ち祈祷をし、イタコとペアになって共に祭祀を行い、イタコは霊を降ろす役割を担った。
津軽地方では、この修験者・イタコのペアの形態がオシラサマにまつわる最も古い在り方で、祈祷する際に呪具としてのオシラサマを操っていたのは修験者で、降ろすために“遊ばせる”のはイタコの役割だったのではないか、と住職は語る。
明治の神仏分離を機に、修験衆廃止令が出された。これにより、修験者は活動ができなくなるが、目の見えない女性の職業であったイタコは、廃止されることなく保護され残った。
修験衆廃止令が出た後、当時の久渡寺の住職は、オシラサマは歓喜天と同体だとみなす。歓喜天と同体であるオシラサマを信仰する、という形で、修験者が活動できなくなってもオシラサマ信仰の行き場がなくなってしまわないように、久渡寺が修験者の代わりを担った。
祭日の日、普段は各家にしまわれているオシラサマを持って、久渡寺に集まる。歓喜天と同体となったオシラサマに、晴れ着(キンキラ)の服を着せ、着物に法印を押し、法印を押すごとにオシラサマの“位が上がっていく”。
位が上がるごとに、祭日の日に装飾されるものが増えていく。冠がついたり、手がついたり(!)。
そして、歓喜天と同体であるオシラサマを拝むことによるご利益を書いた「大志羅利益経」を住職が唱え、イタコはオシラ祭文を唱え、その年の占いをしたのだという。
資料によれば、昭和30年頃までは夜になると女性たちが歌って踊ったり、本堂の前にイタコが小屋を建て、死者を降ろしてもらう場があったりとかなり賑やかな場だった様子。
それまでは呪具として“つかう”、あるいは“あそばせる”対象だったオシラサマは、歓喜天と同体となったことで初めて“まつる”という扱われ方が生まれた。
キンキラの布や鈴は、歓喜天と同体である、その神聖さやステータスの象徴だったというわけだ。
ただ、オシラサマの“家の神様”としての役割はそのまま名残として残り、普段は家を守ってもらい、悪いものを吸い取ってくれる依り代として過ごし、ハレの日に久渡寺で全部落としてまた家に帰るのだそう。
下記写真は、その後青森市の郷土館に行ったときに撮影させていただいた展示のオシラサマ。久渡寺の本堂の中には、この形のオシラサマの他、位が上がり冠がついたり手がついたオシラサマもまつられてあった。

久渡寺では、各地から“遊ばせる”人がいなくなり行き場をなくしたオシラサマが集まってくるという。寺に納めてもらうと、御神体だけにして保存しているそうだが、現在保管している数は、なんと3000~5000体。
住職がご神体を調べてみると、二体一対で男・女あるいは馬・女とされているオシラサマだが、男・男というペアのものもあったそう。呪符が貼られているものや、髪の毛がついたもの、顔のないもの、簡素な刻みだけで顔を彫られているもの、小さな観音様の顔がついているもの、そのバリエーションは様々だったと話す。
しばらく話していると、「中、見ますか?」と言って、住職が一つ箱を持ってきて、特別にいくつかご神体を見せていただくことなった。
一つずつ、丁寧に白い梱包材で包まれていたご神体を見るのは、少し緊張した。
数体見せていただいたが、本当にその形や彫られ方は様々だった。
当時の仏師が彫ったのだろうお顔もあれば、顔に線だけ入っているようなオシラサマもある。
おそらく、かなり古いオシラサマと見られるご神体は、持ち手の部分が研磨されていて、熟練の道具、という感じがした。それこそ、人形遣いの方たちの道具のような、“手で使い込んでいる”印象を受けた。
“オシラサマを持って動かす”という営みが、かなりの頻度で行われていたのだろうと想像した。
人形劇の世界で「人形操りのルーツ」と言われていることと、ご身体の擦り切れた木が、結ばれたような気がした。

午後は、青森市立郷土館へ。
実は、郷土館は今長期休館中なのだが、学芸員の方に電話をして訪ねてみると、特別に中を見せていただけることになった。(本当に、ありがとうございます)



一番上のオシラサマ(南部)はキャプションにも
「南部地方のオシラサマは古いオセンダク(布)をまとった小型のものが少なくありません。
とあるが、一番上の南部のようなオシラサマはこれまでの岩手県内の博物館でも観たことががあったが、2,3番目の写真のような長い布をまとったオシラサマは、この郷土館が初めてだった。これらがつまり、久渡寺系のオシラサマということだろう。

昭和30年代の久渡寺でのオシラサマの祭日を撮影した写真も展示されてあった。
かなりの人数で本堂がごった返している様子が伝わってくる。女性だけでこのように大規模に集う日は、この時ぐらいだったのではないだろうか。


オシラサマとは違うが、同じヒト型の民間信仰として、地蔵についても話を聞かせていただいた。津軽地域では、子どもが亡くなると石屋に頼んで地蔵を作り、毎年着物を着せるのだそう。
集落にだいたい一件は地蔵堂があり、月1回、年1回など定期的に集まる。研究者は「地蔵講」と呼ぶが、津軽では「じんじょさま」と呼ぶらしい。
この地蔵は南部地方ではあまり見られず、津軽地方全域に多く、五所川原や岩木川沿いに特に多いそう。道祖神と呼ばれるものは青森にはなく、地蔵がその代わりを果たしているという。
冥界結婚の風習もあり、亡くなった子がそろそろ成人した頃だな、という時期に、人形を一緒に供え、その人形にも名前を付けて冥界での結婚をさせるそう。
ただ、この地蔵の需要は現在は減っていて、新しく作られることはかなり少なくなった。
「ひとがた」の話ではないが、一つ面白い話を聞いた。
津軽ではかっぱのことを“すいこさま”と呼ぶらしいが、今でも水難事故があると、「すいこにとられた」と言うことがあるのだそう。
実際に学芸員の方が70代くらいの方に聞いた話によると、“すいこ”の前では本名を言ってはいけない、という暗黙の掟があるそうで、言うと命を取られる、ということで“すいこ”がいそうな場所の近くでは偽名(すいこなめ)を使っていたらしい。
話をしていると「あそこのヒロシはほんとはヒロシじゃねえんだべ」と、お互いの名前をよく分かっていない雰囲気もあったそうで、その方たちの雰囲気からすると、日常的に偽名を使っていた可能性もあるんじゃないか、と。

自然や病に対する恐れや、亡き者に対する想い、自分の力が及ばないものへの畏怖もあるだろうが、久渡寺に押し寄せる女性たちの熱量や、地蔵に着せるカラフルな着物、祭りの様子などの当時の写真から想像したのは、そのハレの時間が、日々の営みの中で、特別で楽しみな時間だったのだろうな、ということだった。
オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目前編〉
〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

オシラサマを辿る東北取材ノート〈6日目前編〉
2024年6月28日(金)取材Day6. 恐山(青森県むつ市)記:長井望美

Am8:35 恐山 (青森県
みなさんは恐山(おそれざん)をご存じでしょうか?
青森県の観光名所、日本三大霊場のひとつ、死者の魂が集まる場所…
テレビや漫画で、あるいは観光情報で、目に耳にしたことがある方も多いかもわかりません。
白い石の風景に小石が積みあげられ、鴉が鳴き、お地蔵さんの前に色鮮やかな風車がカラカラと回っているイメージ…
秋田在住であった小学生時代家族旅行で、大学1生の夏休みに青春十八切符で回った東北旅行で、そして今回取材旅行で、わたしにとっては人生三度目の恐山来訪となりました。

ーー以下、青森県観光情報サイト”AMAZING AOMORI” ※青森県観光交流推進部観光政策課運営
より抜粋
霊場恐山で地獄と極楽を歩く|特集|【公式】青森県観光情報サイト Amazing AOMORI (aomori-tourism.com)
下北半島に位置する霊場・恐山は、今からおよそ1,200年前、慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)によって開かれた霊場です。円仁が彫刻した一体の地蔵「延命地蔵菩薩」を本尊としています。地元では古くから「死ねばお山(恐山)に行く」と言い伝えられてきました。恐山はあの世に最も近いとされ、死者への供養の場・故人を思い偲ぶ場として、日本各地から参拝客が途絶えることなく訪れています。
恐山と呼ばれていますが、実際は「恐山」という名前の山が存在するわけではありません。釜臥山をはじめとする8つの山々に囲まれた宇曽利湖(うそりこ)があり、宇曽利湖の湖畔に沿うように「霊場恐山 恐山菩提寺」があります。
地蔵殿の左手に広がるのは、火山岩で形成された「地獄」。現世で犯した罪の罰を受ける136もの地獄をあらわしているのだそうです。辺りは荒涼としていて植物もほとんどなく、至るところから火山性ガスが噴出していて、まさに地獄のような景色が広がっています。
また、地獄には参拝客が供養のために積んだ石や小さなお地蔵様の人形が無造作に置かれています。人々の思いや祈り、願いが込められた営みが感じられる場所です。人々が大切な人を思う念が長年積もり積もった場所。だからこそパワースポットでもあり、一般的なお寺では感じられないような空気感が形成されているのです。
恐山には夏と秋、年二回の大祭があります。夏の恐山大祭には全国各地から大勢の参詣者が訪れます。中でも「イタコの口寄せ」は、死者の霊を呼び起こし、故人と今、現実に逢ってでもいるのかのように対話できる不思議な世界を体験できます。昔から「大祭の日に地蔵を祈れば、亡くなった人の苦難を救う。」と伝えられており、秋詣りとともに大勢の人々でにぎわいます。毎年7月20日から7月24日に開催。--------




《恐山とイタコ》
そう、恐山はオシラサマ信仰と深いかかわりを持つ、東北の民間仰の盲目の巫女「イタコ」と縁深い場所。イタコは祭祀的な役割としてオシラサマ信仰に登場したり、しなかったりします。(どっちやねん!)オシラサマについて調べよう!と意気込み調べ始めた人は、まず、オシラサマとイタコの関係性の謎…説明が一元化できない…に首をひねることになるのですが…
イタコとはいったい何者なのでしょう?前日訪問した青森県郷土館の資料をお浚いしてみます。
イタコ
川倉や恐山の地蔵さまの祭日に集まるイタコとは、どのような人たちで、どのような役目をしていたのでしょうかー。
イタコといわれる盲目の巫女が、川倉や恐山のところで死んだ人たちの霊をよびもどし、死者にかわってものをいう口寄せ(くちよせ)をしています。
このように神仏や霊の世界と俗界(現実の世界)をむすびつける役目をする女の人たちを、イタコとよんでいます。イタコはお守りが入っている丸筒(オダイジ)をせおって、大きな数珠をすりながら仏降ろしの文句を唱えて口寄せをしています。また、梓弓とよばれる弓をたたきながら口寄せをすることもあります。
人びとはそのほかに病魔のはらいや吉凶の占い、オシラサマあそびなどもイタコにたのみました。
昔は盲目の女の子がいると、名のあるイタコのところへ入門させ、きびしい修業をつませて、イタコにすることが多かったのですが、このごろでは、その風習もしだいにすたれて、イタコの数もすくなくなってきました。-------
ーー以上、青森県郷土館展示キャプションより抜粋
イタコは、東北地方北部の民間信仰の巫女の一種、とされています。地域に根付いた霊的な力を持ったシャーマンであり、心理カウンセラーのような役割も果たしたそう。弱視・盲目の女性が地域社会で生きていくための受け皿としての専門職という社会的機能もあったようです。
イタコは「口寄せ」を行うことで有名です。口寄せとはイタコが依頼を受け死者(動物もよびだせるそうな)の霊魂を現世に召びだし、自身の身体に憑依させ、自らの口を介し死者の言葉を語り、依頼者が死者のメッセージを受け取ったり、死者と対話することを可能にする、という呪術的行為です。
イタコは口寄せの他にもは憑き物のお祓い、悪魔祓い、虫封じ、魔除け、身体のおまじないなど様々な儀式を行っていたそう。
イタコとオシラサマ信仰とのかかわりは、小正月(1月15日)(時代や地域によっては他の月にも年数回行っていた例もあるそう)にオシラサマを保持する家がイタコを招き、イタコがオシラサマのご神体を両手に持ちオシラ祭文を唱えアソバセ、集まった人に託宣を行っていたという信仰形態があった、ということです。

《恐山とイタコの盛衰》
今日の恐山とイタコについて、今回の取材旅行で耳にした記憶が蘇ります。
「昔は岩手からも、亡くなった方と対話したい、と、マイクロバスを仕立てて沢山の人が青森の恐山まで行ってた。いまではそういう話はまず聞かない。」(2日目、遠野の伝承園職員さんより)
「今では青森県内で伝統的なイタコさんとして活動している人は残り2名程であるという。そのうちお一人は高齢で活動が困難になっているようだ。」時代が降り、イタコという職能が静かに消えていこうとしている…(5日目、八戸市博物館にて)
恐山自体を訪れる人、寄せられる信仰や念(?)のエネルギーの量や質のようなもの…もこの数10年で随分と変わってしまったのかもしれません。
《オシラの魂ー東北文化論》
『神秘日本』(みすず書房)は芸術家でもある岡本太郎の日本紀行文集です。岡本は1962年に青森に取材し、民間信仰や芸能、人々の暮らしなどを民俗学的な視点で写真を撮り、「オシラの魂―東北文化論」を執筆し、1964年に『神秘日本』を上梓しました。戦後復興から経済に暮らしに上向く日本が湧きたった時代。多くの死者の記憶を抱えながら時代を進める生者たちの躍進。たくさんのイタコが東北で活動し、彼女らを介し死者と言葉を交わしたいと集まった人々でにぎわった時代の恐山、強いエネルギーを放っていた東北の民間信仰とそれを取り巻く女性たちの姿が描かれています。

恐山の地蔵盆に巫女が集まるようになったのはそう古くはなく、明治のはじめからとか。太郎が菩提寺の住職に尋ねてみると、「巫女は寺とは何の関係もなく、本殿に上がって口寄せをやってはいけないことになっているけれども、この附近とかサイの河原に集まってくるのは、まぁ仕方がないというところです…」厳しい自然に抱かれ、宗教政治的中央権力の影響の薄かった東北での、アニミズム的世界観での仏教と民間信仰の共存。
岡本太郎は、恐山・川倉の地蔵盆、口寄せ、オシラサマ信仰などを、東北の中年以降の…多くは嫁ぎ主婦となった女性たち…、「おがさま(おっかさん)」「あっぱ(お婆さん)」たちの魂の解放の祭りとして生き生きと描いています。
--ひどく純粋で、それ自体としてまことに真実なのだ。矛盾しているとか、オカシイなんて、疑うのはまったくのお門ちがい。たとえ矛盾していても、口よせは彼女らにとって、冗談ごとや、いい加減な所業ではない。イタコも、アッパたちもひたむきだ。女たちはただ一人この世に(もうこの世にいないのだが)信じるもの、その名に託された声を聞きながら泣き、歓喜する。そのために、ここに来ている。信じているといえば信じている。信じていないといえば、信じていない。どっちだっていいのだ。泣いているけど救われている。それはまた、言いようなく楽しい。現し身のカタルシス、といってもいい。…
---イタコの口寄せは、人生の暗闇をたどってきた婆さんたちにとっては、やはり救いである。仏だろうが、神だろうが、むずかしい教義はわからない。生活の中の悲しみ、鬱屈したものをそれによって解きほぐす。
私はそれを見ていて、やはり魂の救済だな、と思った。よきにつけ悪しきにつけ、人生が晴れでも嵐でも、彼女たちはイタコの取りつぐ霊の声を通じて、それはそういうものだと納得する。受け取る勇気を与えられる。それは力なのだ。口よせ以前と以後と、状況は少しも変わらない。けれでも人生はその姿のままで、自然に流れ、魂は安らぐのだ。…
--そうだ。お婆さんだ。
彼女らについて私はあまりにもウカツだった。いや、日本の歴史、文化が、不当にそのいのちを無視して来たのではないだろうか。
---以上『神秘日本』岡本太郎:著 みすず書房「オシラの魂―東北文化論」より
岡本太郎の絵画そのもののような、極彩色でエネルギーにあふれ風景が躍り出すような筆致の紀行文は、これらの民間信仰を通して、日本の歴史の日陰に追いやられてきた女性たち…なかでも結婚をし家庭に入り、家庭と地域を支えながらも社会的には無名の存在であった東北の中年・老齢の女性たちの存在を、喜びと悲しみを内包しながら生命力に満ち、祝祭のひとときギラギラと輝きはじけ、人生の悲しさを超越してゆくエネルギーに満ちた存在として描いています。
62年前のオシラサマ、恐山、イタコ、東北の女性たち…を通して、今日でもわたしたちに日本社会と女性について見つめなおすきっかけを与えてくれる一冊です。

《口寄せ体験》
…2024年に話を戻しましょう、恐山霊場を一巡りしたわれら偶戯を巡るチームは山門の脇にこのような看板を発見しました。「イタコの口寄せ」看板…!!階段を上がり建物を覗き込むと大きな数珠を持った…50代後半から60代くらいでしょうか?…の晴眼の巫女さんらしき女性がにこやかに床に座しておられます…
「こんにちは…。」
「こんにちは。さて、どなたを召びましょうか?」
「……!!」
八戸のはっちミュージアムでボランティアさんとの間に発生した『イタコさんを捜せ』クエストを達成できなかったわたしたち。「こ…、ここまで来たらぜひ、イタコさんとお話したい!口寄せをしてもらいたい!!」と部屋に上がり込み、わたしと藤原さん、順番に、それぞれ、祖母、祖父の口寄せをしてもらいました。
以下は、わたしたちが体験した口寄せの儀式の手順です。
①巫女さん(※後ほど確認したところ、正確にはわたしたちのお会いした巫女さんはイタコではなく、青森県南部(旧仙台藩領)から宮城県に分布する民間信仰の巫女「オガミサマ」だったそうです。東北にはかつて地域ごとに民間信仰の巫女が存在し、それぞれが地域に根付きお祓いや託宣、口寄せなどを行っていたそう。)と依頼者が対面して座る。
②巫女さんに死者との続柄・命日を伝える。口寄せに必須の情報だそう。
巫女から依頼者へ、召び出したい死者との関係性の聞き取りが世間話調で行われる。
(死者の名前、出身地、生年月日、人となりなどは尋ねられなかった。依頼者の名前や住所などの個人情報も同様。)
③巫女さんから「いまから詠唱を行います。それが終わると召びだした方(死者)がわたしの身体に憑依するので、話しかけてくださいね。」と告げられる。
巫女さんが目を伏せ、数珠を鳴らしながら口寄せの呪文(祭文?)を詠唱する。
④詠唱が終わり、トランス状態になった(?)巫女さんがガクリとうなだれ、「孫や…」と話し始める…
⑤召びだされた死者と対話をする。召びだされた霊魂(あるいは憑依状態の巫女さん??)と依頼者の対話を紡ぐ緊迫した言葉のキャッチボールが展開される…
⑥口寄せが終わり、巫女さんの憑依状態が解ける。巫女さんから「お話しできましたか?わたしは憑依中の記憶はないのですが…」と告げられる。依頼者が口寄せで起こったこと,所感などを巫女さんにフィードバックする。
…口寄せ料は一人の霊につき4,000円。一霊(?)追加するごとに+4,000円でした。(※2024年6月時点。巫女さんにより価格が違う場合もあるようです)。
ちなみに、わたしは、生まれも育ちも兵庫なわが祖母の霊(?)が東北弁で語り出したのでぶっ飛びました。…生前はちゃきちゃきの兵庫弁しゃべってはってんけどなァ…
口寄せには、巫女さんに憑依した霊が一方的に語り出し去っていくケース、しっかり依頼者と霊が対話して去るケースなどがあるようです。わたしたちはがっつり対話型の口寄せ体験でした。
口寄せ後に件の巫女さん…オガミサマにお話を聞けました。彼女は宮城県から通ってきているとのこと。昔は盲目の少女が師匠について若いうちから修業したものだったが、自分は結婚をして主婦となったが夫に先立たれ、晴眼ではあるが生計を立てるためにオガミサマになる決意をし、師匠について修業をし開業したとのこと。
オガミサマの修業は多岐にわたり、様々なスキルを習得する。巫女の中にもなになにが得意、なになにならあの人、というのがあって、オガミサマにもオシラサマアソバセをする者もあったけれど、自分にはできない。イタコは近年減少しており、オガミサマである彼女も恐山まで遠方から通うようになった。現在では恐山で口寄せを行っているのは彼女ともう一人のイタコの2名しかいないということ。普段は地元宮城の方でオガミサマとして依頼を受けて働いている、ということでした。


《冥婚の花嫁人形》
口寄せ体験のインパクトに呆としながら菩提寺の堂内を覗くと、壁際にズラリとケースに入れられた花嫁衣裳の人形がたくさん並べられていました。
前日、青森県立郷土館でお聞きしたお話…「青森には男性が未婚のまま亡くなった場合、家族が死者を一人前の男性とするため、花嫁の人形を奉納し冥婚をさせる習俗が残っている。」…
その実例を恐山で実際に目にしたのでした。冥婚の花嫁人形と聞き、前日、わたしは脳内に古式ゆかしい日本人形が花嫁衣装を着ているさまを思い描いていたのですが、実際に恐山の菩提寺の壁に並べられたケースの中の人形たちは、小顔で等身が高くスタイル抜群、なかなかに色っぽい白無垢姿の黒髪の美人花嫁人形たち…あれっ金髪のバービー人形も混ざっていたような…。冥婚人形の意外なポップさ、現代性、ずらりと並べられた花嫁の体数…に度肝を抜かれたのでした。
(これはいったいいつ奉納されたものだ??)
死者と生者、巫女と人形(ひとがた)と…。
時代が推移し、人々の生活や意識が変容し、例えばオシラサマやイタコという民間信仰がかつての形態を保てなくなっていったとしても、形を変え、形式を変え、人形(ひとがた)が死者、あるいは人ならざる存在、そして今日を生きる地域の人びと…を結ぶなんらかの信仰(あるいは信仰的行為)、文化は、こうして東北に息づき絶えることはないのだろうな…とくらくらしながら山を下りたのでした。
取材はこの後、6日目後編… 恐山(青森県むつ市)→宮古市立図書館(岩手県宮古市)→川井村北上山地民俗資料館(岩手県宮古市)→宮古市泊
と続きますが、長くなってしまったので前後篇といたします!