〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。
以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。
オシラサマを辿る東北取材ノート〈4日目〉
2024年 6月27日(木)取材Day5. 青森県十和田市~弘前市~青森市~むつ市
記:藤原佳奈
5日目の朝。ホステル近くの十和田湖を散歩した後、車を走らせ弘前市の真言宗寺院久渡寺へ向かう。
久渡寺は、明治期以降に津軽地方でオシラ様信仰の中心となった場所。オシラサマを少し調べれば、『久渡寺』の情報には突き当たるが、いまいち寺とオシラサマの関係がつかめないままだった。
前日、八戸の博物館を訪ねた際、『久渡寺系』だと言って見せてもらったオシラサマ。キンキラの布に、首元には鈴。久渡寺のオシラサマだけ、なぜあんなにゴージャスなのだろう……
11時頃、久渡寺へ到着。
入口から、山の中に向かって長い石段の参道が伸びている。
そういえば、オシラサマが入っている木箱を背負った女性たちが、この長い石段を登っていく姿を、資料の写真で見たことがあった。
久渡寺では、毎月5月15日、16日がオシラサマの祭日となっている。
一段一段、息を切らせて登りながら、様々な地域から集った女性たちが、新緑が映える5月にこの階段を登って行ったその風景、女性たちの背にあったオシラサマのことを想像した。祭日には、秋田や北海道からも人が集ったと聞く。
本堂に入り、住職にご挨拶。
オシラサマと久渡寺の関係についてお話を聞かせていただいた。
(本堂の中では撮影をしていないので、以後、写真記録はない)
住職曰く、オシラサマはもともと修験者の呪具として使わていたと考えられるそう。
修験者が今のオシラサマにあたるものを呪具として持ち祈祷をし、イタコとペアになって共に祭祀を行い、イタコは霊を降ろす役割を担った。
津軽地方では、この修験者・イタコのペアの形態がオシラサマにまつわる最も古い在り方で、祈祷する際に呪具としてのオシラサマを操っていたのは修験者で、降ろすために“遊ばせる”のはイタコの役割だったのではないか、と住職は語る。
明治の神仏分離を機に、修験衆廃止令が出された。これにより、修験者は活動ができなくなるが、目の見えない女性の職業であったイタコは、廃止されることなく保護され残った。
修験衆廃止令が出た後、当時の久渡寺の住職は、オシラサマは歓喜天と同体だとみなす。歓喜天と同体であるオシラサマを信仰する、という形で、修験者が活動できなくなってもオシラサマ信仰の行き場がなくなってしまわないように、久渡寺が修験者の代わりを担った。
祭日の日、普段は各家にしまわれているオシラサマを持って、久渡寺に集まる。歓喜天と同体となったオシラサマに、晴れ着(キンキラ)の服を着せ、着物に法印を押し、法印を押すごとにオシラサマの“位が上がっていく”。
位が上がるごとに、祭日の日に装飾されるものが増えていく。冠がついたり、手がついたり(!)。
そして、歓喜天と同体であるオシラサマを拝むことによるご利益を書いた「大志羅利益経」を住職が唱え、イタコはオシラ祭文を唱え、その年の占いをしたのだという。
資料によれば、昭和30年頃までは夜になると女性たちが歌って踊ったり、本堂の前にイタコが小屋を建て、死者を降ろしてもらう場があったりとかなり賑やかな場だった様子。
それまでは呪具として“つかう”、あるいは“あそばせる”対象だったオシラサマは、歓喜天と同体となったことで初めて“まつる”という扱われ方が生まれた。
キンキラの布や鈴は、歓喜天と同体である、その神聖さやステータスの象徴だったというわけだ。
ただ、オシラサマの“家の神様”としての役割はそのまま名残として残り、普段は家を守ってもらい、悪いものを吸い取ってくれる依り代として過ごし、ハレの日に久渡寺で全部落としてまた家に帰るのだそう。
下記写真は、その後青森市の郷土館に行ったときに撮影させていただいた展示のオシラサマ。久渡寺の本堂の中には、この形のオシラサマの他、位が上がり冠がついたり手がついたオシラサマもまつられてあった。
久渡寺では、各地から“遊ばせる”人がいなくなり行き場をなくしたオシラサマが集まってくるという。寺に納めてもらうと、御神体だけにして保存しているそうだが、現在保管している数は、なんと3000~5000体。
住職がご神体を調べてみると、二体一対で男・女あるいは馬・女とされているオシラサマだが、男・男というペアのものもあったそう。呪符が貼られているものや、髪の毛がついたもの、顔のないもの、簡素な刻みだけで顔を彫られているもの、小さな観音様の顔がついているもの、そのバリエーションは様々だったと話す。
しばらく話していると、「中、見ますか?」と言って、住職が一つ箱を持ってきて、特別にいくつかご神体を見せていただくことなった。
一つずつ、丁寧に白い梱包材で包まれていたご神体を見るのは、少し緊張した。
数体見せていただいたが、本当にその形や彫られ方は様々だった。
当時の仏師が彫ったのだろうお顔もあれば、顔に線だけ入っているようなオシラサマもある。
おそらく、かなり古いオシラサマと見られるご神体は、持ち手の部分が研磨されていて、熟練の道具、という感じがした。それこそ、人形遣いの方たちの道具のような、“手で使い込んでいる”印象を受けた。
“オシラサマを持って動かす”という営みが、かなりの頻度で行われていたのだろうと想像した。
人形劇の世界で「人形操りのルーツ」と言われていることと、ご身体の擦り切れた木が、結ばれたような気がした。
午後は、青森市立郷土館へ。
実は、郷土館は今長期休館中なのだが、学芸員の方に電話をして訪ねてみると、特別に中を見せていただけることになった。(本当に、ありがとうございます)
一番上のオシラサマ(南部)はキャプションにも
「南部地方のオシラサマは古いオセンダク(布)をまとった小型のものが少なくありません。
とあるが、一番上の南部のようなオシラサマはこれまでの岩手県内の博物館でも観たことががあったが、2,3番目の写真のような長い布をまとったオシラサマは、この郷土館が初めてだった。これらがつまり、久渡寺系のオシラサマということだろう。
昭和30年代の久渡寺でのオシラサマの祭日を撮影した写真も展示されてあった。
かなりの人数で本堂がごった返している様子が伝わってくる。女性だけでこのように大規模に集う日は、この時ぐらいだったのではないだろうか。
オシラサマとは違うが、同じヒト型の民間信仰として、地蔵についても話を聞かせていただいた。津軽地域では、子どもが亡くなると石屋に頼んで地蔵を作り、毎年着物を着せるのだそう。
集落にだいたい一件は地蔵堂があり、月1回、年1回など定期的に集まる。研究者は「地蔵講」と呼ぶが、津軽では「じんじょさま」と呼ぶらしい。
この地蔵は南部地方ではあまり見られず、津軽地方全域に多く、五所川原や岩木川沿いに特に多いそう。道祖神と呼ばれるものは青森にはなく、地蔵がその代わりを果たしているという。
冥界結婚の風習もあり、亡くなった子がそろそろ成人した頃だな、という時期に、人形を一緒に供え、その人形にも名前を付けて冥界での結婚をさせるそう。
ただ、この地蔵の需要は現在は減っていて、新しく作られることはかなり少なくなった。
「ひとがた」の話ではないが、一つ面白い話を聞いた。
津軽ではかっぱのことを“すいこさま”と呼ぶらしいが、今でも水難事故があると、「すいこにとられた」と言うことがあるのだそう。
実際に学芸員の方が70代くらいの方に聞いた話によると、“すいこ”の前では本名を言ってはいけない、という暗黙の掟があるそうで、言うと命を取られる、ということで“すいこ”がいそうな場所の近くでは偽名(すいこなめ)を使っていたらしい。
話をしていると「あそこのヒロシはほんとはヒロシじゃねえんだべ」と、お互いの名前をよく分かっていない雰囲気もあったそうで、その方たちの雰囲気からすると、日常的に偽名を使っていた可能性もあるんじゃないか、と。
自然や病に対する恐れや、亡き者に対する想い、自分の力が及ばないものへの畏怖もあるだろうが、久渡寺に押し寄せる女性たちの熱量や、地蔵に着せるカラフルな着物、祭りの様子などの当時の写真から想像したのは、そのハレの時間が、日々の営みの中で、特別で楽しみな時間だったのだろうな、ということだった。